こんなことを書くとマスコミに叱られそうだが、「鳥インフルエンザの報道によって、ニワトリに対する抜きがたい恐怖心を日本の社会に撒き散らしたのは新聞・テレビなどのマスコミだ」と、僕は断言してもよい。鳥インフルエンザも新型インフルエンザもごちゃ混ぜで報道されていたことを、僕は指摘している。もちろん、行政機関のマスコミへの資料提供が説明不足だったり、適切でなかったことも原因しているだろう。しかしながら、報道する立場の者は、もっと勉強すべきである。不勉強なまま、行政機関から出てきた資料や聞き取った事項を、馬鹿の丸写しで報道するから世の中に無用の混乱が起きるのだ。もっとも、最近はようやくそのことが分かってきたようで、新型インフルエンザと鳥インフルエンザを意識して使い分けるようになったよね。
隣村の神社にアオサギが住み着いている。昨秋だが、僕が夜に神社の前の道を車で通りかかったら、アオサギが道端にたたずんでいた。まだ幼鳥で飛び始めらしく、警笛を鳴らしても退いてくれない。これが「未必の故意」だなと思いながら、ゆっくりとその上を通った。家に着いて車を降りたら、アオサギも車の下から出てきて公道に歩いて行った。
翌朝、我が家から50メートルほど離れた家の人が役場に電話をしたらしい。「アオサギが家の前をうろついている。孫が突かれると困るので、捕まえてほしい。」ところが、役場の返事が「野鳥はむやみに捕まえられないので、放置しておいてほしい」ということだったらしい。野鳥も鳥インフルエンザに罹っているかもしてないのに、どうして鶏ばかりうるさく注意されなければならないのか、と僕は思った。そして、野鳥は「自然保護」とか「環境保護」の風に乗り、H5N1型のインフルエンザウイルスに感染していても一網打尽に捕まえられて焼き鳥にされず、マスクも掛けずに飛んでいる。
僕は、今年の4月からシャモ(軍鶏)を10羽だけ飼っている。鶏の飼料としてホシアオバという米を今年から作り始めたので、町役場に連絡した。飼料用米は減反作物に認められているからだ。そうしたら、野鳥が軍鶏と接触しない構造になっていないか、役場から、早速、鶏舎を視察に来た。国や県から役場に指示が来ているからだが、鶏舎の周りに消石灰を撒いたり、鶏舎の出入りに長靴を消毒しなければならない。どうして鶏ばかり危険視するのかというと、「鶏の鳥インフルエンザは人に移るので超危険」という常識が世間に蔓延しているからだが、取り締まる当局も指弾されるのを恐れてやっているのだと僕は思っている。
このような例は、他にもありそうだなあ。子供のいじめ問題の発生を恐れて、携帯電話を目の敵にしているのも似たような例かも知れない。因果関係の濃淡を他人に説明するのは、本当に難しいことなんですよ。言葉では「相当因果関係」とか「条件的?因果関係」とか言って区分できるように言っているが、現実に国内で鶏から新型インフルエンザへ転移したら、「可能性は薄かったのですが・・・」と弁解してもダメ。現実に携帯電話のメールが原因で子供が自殺したら、一気に携帯電話は悪者になってしまう。論理学の学者は何を研究しているんだね。因果関係の濃淡を説明して納得できる有効な論理は考え出せないのかね、ええ? だから日本ではクレーマーがはびこるんだよ。結果だけ報道すればよい報道機関が、ヤクザまがいに幅を効かせているんだよ。
2009年2月3日、農水省はフランスのフォアグラを輸入禁止にしたそうです。フランスで鳥インフルエンザが発生しているからです。この事実に対しても、今後、いろんな憶測が成されることでしょう。菌が日本国内に入り込まないようにすることが本旨だと思いますが、この鳥インフルエンザが新型インフルエンザと混同されるに違いありません。フォアグラのH5N1型の菌が変異して人から人へ移るかも知れないことを否定するつもりはありません。また、少し騒ぎすぎだとたしなめるつもりもありません。しかし、憶測はできるだけ避けて、科学的知見に基づく意見に冷静に耳を傾けなければなりません。
2008年9月12日金曜日
2008年6月28日土曜日
いよいよ軍鶏が鳴き出した
我が家へヒナを引き取ってから二ヶ月が経った。(引き取り日:4月26日)今朝(6月28日)、変な声が聞こえるのでぎょっとして鶏舎を見に行ったら、軍鶏が鳴き始めた。今のところ、「コケコー」と完全な鳴きようではなさそうだが、早朝から高らかに鳴きだしたら、近所迷惑を考えて鶏舎の位置を移さなければならない。現在は自家の裏だが、人家と距離を置く田圃の中の予定地へ移さなければならない。鶏の成長に急かされて、次の段取りを考える羽目になってしまった。
二棟目の鶏舎はビニールハウスの鉄パイプで組み立てるつもりだ。設置予定地にある既設の小屋を基地にして、飼料などを置くつもり。清潔な水も用意しなければならない。しかし、8月10日過ぎに実施される田圃の害虫防除が終わるまで、予定地へ移すのは止めておかねばならない。鶏に農薬が掛かっても困る。そのうち台風が吹くようになる。となると、一気に来年の予定地へ移るしか選択の余地がなくなるかな? そこは、南と東の方向に林や藪があるので、風は幾分弱くなるだろう。一方で、加害動物への対策も考える必要がある。先日も狐が「ギャー」と声を上げていたし、そこは山と河川の堤防を繋ぐ地点なので、イノシシや熊が通過する。イタチもいるだろう。まったく、運動会にある「借り物競走」と「障害物競走」みたいだ。すべてに万全を図っていたら、ゴールは遠くなる。
役場から職員が来て、鳥インフルエンザの対策で質問を受けた。行政機関も自分たちに責任が被ってこないように動き出している。パンデミック対策だが、パンデミックは明日起こるかも知れないし、十年後に起きるかも知れない。だから、どれだけ緊張感を持って、しかも事前の適切な被害予防策を打てるのだろうか、心配だ。
文藝春秋の八月号には養鶏業にとって不利な記事が載っている。図書館で走り読みしただけなので熟読していないが、鶏舎から人に伝染する新型インフルエンザが発生することも記載されている。もちろんその可能性は否定しないが、確率は極めて低いことだけは断言できる。なぜなら、野鳥が鳥インフルエンザの菌を運んでくるのだから、野鳥から人間に鳥インフルエンザ菌が感染する可能性の方が高いからである。車に鳥から糞を掛けられた経験のある人は多いと思う。ワイパーで取り除いても、空気取り入れ口から車内の菌が運ばれることは充分予想される。野菜に掛けられた野鳥の糞も多い。野鳥の死骸に触れる者もあるだろう。このような環境下で、野鳥対策に注力している鶏が感染源となる可能性は極めて低い。現状は「鶏叩き」で、鶏はスケープゴートだ。自然保護の美名の基に、鶏に一方的に責任を転嫁するものに他ならないと私は思っている。野鳥を捕獲することは難しいが、野鳥の捕獲こそ最優先すべきことではないのか。
京都大学の大澤真幸教授(哲学)が、人間の言葉は結果的に無限の可能性を議論することになっていると述べている。国会の議論でも、国策を忘れて細かい可能性の議論をしていることが多い。ひところの地方自治体の総合計画には、馬鹿なコンサルの起案による長期的な人口増加のグラフばかりが幅をきかせていた。ひとたび人口減少が主流になると、今度は人口減少のグラフばかりが目に付く。実現可能性と思考上の可能性が混線している例は、経済記事に多い。予想の違った学者や評論家は知らぬ顔を決め込んでいる。我々養鶏業の者も、新型インフルエンザが日本の鶏から発生すると言った人々や役所の者をしっかりと記録して、後々の物笑いの資料として保存を図らなければならない。
二棟目の鶏舎はビニールハウスの鉄パイプで組み立てるつもりだ。設置予定地にある既設の小屋を基地にして、飼料などを置くつもり。清潔な水も用意しなければならない。しかし、8月10日過ぎに実施される田圃の害虫防除が終わるまで、予定地へ移すのは止めておかねばならない。鶏に農薬が掛かっても困る。そのうち台風が吹くようになる。となると、一気に来年の予定地へ移るしか選択の余地がなくなるかな? そこは、南と東の方向に林や藪があるので、風は幾分弱くなるだろう。一方で、加害動物への対策も考える必要がある。先日も狐が「ギャー」と声を上げていたし、そこは山と河川の堤防を繋ぐ地点なので、イノシシや熊が通過する。イタチもいるだろう。まったく、運動会にある「借り物競走」と「障害物競走」みたいだ。すべてに万全を図っていたら、ゴールは遠くなる。
役場から職員が来て、鳥インフルエンザの対策で質問を受けた。行政機関も自分たちに責任が被ってこないように動き出している。パンデミック対策だが、パンデミックは明日起こるかも知れないし、十年後に起きるかも知れない。だから、どれだけ緊張感を持って、しかも事前の適切な被害予防策を打てるのだろうか、心配だ。
文藝春秋の八月号には養鶏業にとって不利な記事が載っている。図書館で走り読みしただけなので熟読していないが、鶏舎から人に伝染する新型インフルエンザが発生することも記載されている。もちろんその可能性は否定しないが、確率は極めて低いことだけは断言できる。なぜなら、野鳥が鳥インフルエンザの菌を運んでくるのだから、野鳥から人間に鳥インフルエンザ菌が感染する可能性の方が高いからである。車に鳥から糞を掛けられた経験のある人は多いと思う。ワイパーで取り除いても、空気取り入れ口から車内の菌が運ばれることは充分予想される。野菜に掛けられた野鳥の糞も多い。野鳥の死骸に触れる者もあるだろう。このような環境下で、野鳥対策に注力している鶏が感染源となる可能性は極めて低い。現状は「鶏叩き」で、鶏はスケープゴートだ。自然保護の美名の基に、鶏に一方的に責任を転嫁するものに他ならないと私は思っている。野鳥を捕獲することは難しいが、野鳥の捕獲こそ最優先すべきことではないのか。
京都大学の大澤真幸教授(哲学)が、人間の言葉は結果的に無限の可能性を議論することになっていると述べている。国会の議論でも、国策を忘れて細かい可能性の議論をしていることが多い。ひところの地方自治体の総合計画には、馬鹿なコンサルの起案による長期的な人口増加のグラフばかりが幅をきかせていた。ひとたび人口減少が主流になると、今度は人口減少のグラフばかりが目に付く。実現可能性と思考上の可能性が混線している例は、経済記事に多い。予想の違った学者や評論家は知らぬ顔を決め込んでいる。我々養鶏業の者も、新型インフルエンザが日本の鶏から発生すると言った人々や役所の者をしっかりと記録して、後々の物笑いの資料として保存を図らなければならない。
2008年6月23日月曜日
大正時代の養鶏法
昨日は江北図書館へいった。この「江北」という意味は琵琶湖の北の地方を意味する。浅井長政の浅井家を綴った「浅井三代記」などには江北の文字が使われていることからみても、図書館の古さが想像できる。ちなみに、近年は天気予報も「湖北」という言葉に置き換わっている。
この図書館は、明治時代に余呉町出身の杉野某が故郷に蔵書を寄贈したのが始まりである。現在では、これも米騒動の頃に作られた「伊香相救社」が設置管理している。近隣に図書館の無かった時代には、図書館の存在自体、きわめて貴重なことであったことが想像される。
来館の目的が戦前の鶏の飼い方であることを司書に告げると、奥から「養鶏の話」という大正時代に発行された本を出してくれた。この本のタイトルは、右から左に横書きされている。紙は黄変と言うより褐色変になっている。その頃は美濃紙など和紙以外は硫酸パルプによる紙だから、中性紙などあるはずがない。かなり注意して一枚一枚を繰った。この本は貸し出し禁止が原則らしい。そこで、面白そうなことだけ抜き書きした。
雄鳥は去勢すると肉質が良くなるとのこと。ヒナから二三ヶ月くらいが去勢の適期。去勢の仕方も詳しく書いていた。事前に昼夜絶食させておくこと。鶏を板の上に横臥させたとき、首、羽、足が固定できるようにするため、板の適切な位置に穴をあけ、ひもで固定する。睾丸をメスで切り開いて、腸を傷つけないようスプーンで上げておく。切除の器具は、金属の管に針金を折り曲げて通し、丁度、カウボーイの投げ縄のように手元で針金をひっぱると締まるようにできている。それで鶏の睾丸を切除するのだ。手術後は患部にコールタールを塗っておくと治りやすい、とある。ずいぶん乱暴な手術だが、まったく手元に何もないサバイバルの状況が現出されたら、採用してもよい方法である。
去勢で思い出すのは、ジャバ(インドネシアのジャワのこと)から戦後引き揚げてきた親戚の人が、雄猫を自分で去勢したらしいことを小さい頃に聞いたのが頭にこびりついている。祭りの日などに、叔父さんや従妹の居る我が家へやってきて、ぽつりぽつりと話をしていたのを思い出す。穏和な彼がどのようにして猫の睾丸を抜いたのか想像できないから、いつまでも僕の記憶に残っているのかもしれない。
もっと乱暴な方法もあった。肥肉法として、暗室を設けて、その中に鶏を入れ、朝夕の一日二回、濃厚飼料を与える。与え方は、ロート(漏斗:じょうご)を鶏の口の中につっこみ、餌を流し込むのだそうである。この方法は相撲取りの肥肉法に使えるかも知れない。或る養鶏場のホームページを見ていたら、暗室というものがあった。何に使うのかなあと思ったので印象に残ったが、案外、今でもやっている方法なのかもしれない。経営者にとっては、すこしでも「目方が乗る」と、儲けに繋がるのだから。
「鶏の止まり木は同じ高さにする」というのも、大変参考になった。我が家の近江しゃもの鶏舎には留まりやすいようにと、二段の止まり木を作っていた。ところが夜見ると、全部が高い方に留まっている。
この本にはそのことが指摘されており、止まり木は同じ高さにするように指示してあった。「アホと煙は高いところに行きたがる」ということわざがある。年功序列の地域社会では、年齢の若い者が年寄りよりも高座を占めることを戒める言葉でもあるが、「煙と鶏は高いところに登る」と言った方が無難かも知れない。しかし、そんな言葉はアホには届かないかも知れないが。
使われている資材も時代を反映していた。羽虫や「わくも」には、除虫菊や硫黄華。飼料には牛骨粉も載っていた。牛骨粉は狂牛病で問題になったが、それは牛がBSEへ感染するからだ。草を食べる哺乳類の牛を早く大きくさせるのを焦ったためだ。鳥類には関係ない話だろうが、近頃の消費者は過敏だから、外聞を悪くするので止めた方がいいのだろう。なにしろ遺伝子組み換えの大豆に文句を付けているんだから。遺伝子の媒介にアグロバクテリウムを使うことが気に入らないらしい。認識不足の一部のマスコミに消費者が踊らされることがないよう、優秀な理系出身女性も出ているのだから顧問にして、消費者団体自身で研究すべきだ。言葉の文節に一々反応していては、今に日本もどこかの国のようになってしまいますよ。
最後のこれは役立つことを付け加えます。卵は石灰水中に貯蔵すれば、孵化にも影響がないようです。孵化率が百パーセントに近いとありました。私も試してみます。
この図書館は、明治時代に余呉町出身の杉野某が故郷に蔵書を寄贈したのが始まりである。現在では、これも米騒動の頃に作られた「伊香相救社」が設置管理している。近隣に図書館の無かった時代には、図書館の存在自体、きわめて貴重なことであったことが想像される。
来館の目的が戦前の鶏の飼い方であることを司書に告げると、奥から「養鶏の話」という大正時代に発行された本を出してくれた。この本のタイトルは、右から左に横書きされている。紙は黄変と言うより褐色変になっている。その頃は美濃紙など和紙以外は硫酸パルプによる紙だから、中性紙などあるはずがない。かなり注意して一枚一枚を繰った。この本は貸し出し禁止が原則らしい。そこで、面白そうなことだけ抜き書きした。
雄鳥は去勢すると肉質が良くなるとのこと。ヒナから二三ヶ月くらいが去勢の適期。去勢の仕方も詳しく書いていた。事前に昼夜絶食させておくこと。鶏を板の上に横臥させたとき、首、羽、足が固定できるようにするため、板の適切な位置に穴をあけ、ひもで固定する。睾丸をメスで切り開いて、腸を傷つけないようスプーンで上げておく。切除の器具は、金属の管に針金を折り曲げて通し、丁度、カウボーイの投げ縄のように手元で針金をひっぱると締まるようにできている。それで鶏の睾丸を切除するのだ。手術後は患部にコールタールを塗っておくと治りやすい、とある。ずいぶん乱暴な手術だが、まったく手元に何もないサバイバルの状況が現出されたら、採用してもよい方法である。
去勢で思い出すのは、ジャバ(インドネシアのジャワのこと)から戦後引き揚げてきた親戚の人が、雄猫を自分で去勢したらしいことを小さい頃に聞いたのが頭にこびりついている。祭りの日などに、叔父さんや従妹の居る我が家へやってきて、ぽつりぽつりと話をしていたのを思い出す。穏和な彼がどのようにして猫の睾丸を抜いたのか想像できないから、いつまでも僕の記憶に残っているのかもしれない。
もっと乱暴な方法もあった。肥肉法として、暗室を設けて、その中に鶏を入れ、朝夕の一日二回、濃厚飼料を与える。与え方は、ロート(漏斗:じょうご)を鶏の口の中につっこみ、餌を流し込むのだそうである。この方法は相撲取りの肥肉法に使えるかも知れない。或る養鶏場のホームページを見ていたら、暗室というものがあった。何に使うのかなあと思ったので印象に残ったが、案外、今でもやっている方法なのかもしれない。経営者にとっては、すこしでも「目方が乗る」と、儲けに繋がるのだから。
「鶏の止まり木は同じ高さにする」というのも、大変参考になった。我が家の近江しゃもの鶏舎には留まりやすいようにと、二段の止まり木を作っていた。ところが夜見ると、全部が高い方に留まっている。
この本にはそのことが指摘されており、止まり木は同じ高さにするように指示してあった。「アホと煙は高いところに行きたがる」ということわざがある。年功序列の地域社会では、年齢の若い者が年寄りよりも高座を占めることを戒める言葉でもあるが、「煙と鶏は高いところに登る」と言った方が無難かも知れない。しかし、そんな言葉はアホには届かないかも知れないが。
使われている資材も時代を反映していた。羽虫や「わくも」には、除虫菊や硫黄華。飼料には牛骨粉も載っていた。牛骨粉は狂牛病で問題になったが、それは牛がBSEへ感染するからだ。草を食べる哺乳類の牛を早く大きくさせるのを焦ったためだ。鳥類には関係ない話だろうが、近頃の消費者は過敏だから、外聞を悪くするので止めた方がいいのだろう。なにしろ遺伝子組み換えの大豆に文句を付けているんだから。遺伝子の媒介にアグロバクテリウムを使うことが気に入らないらしい。認識不足の一部のマスコミに消費者が踊らされることがないよう、優秀な理系出身女性も出ているのだから顧問にして、消費者団体自身で研究すべきだ。言葉の文節に一々反応していては、今に日本もどこかの国のようになってしまいますよ。
最後のこれは役立つことを付け加えます。卵は石灰水中に貯蔵すれば、孵化にも影響がないようです。孵化率が百パーセントに近いとありました。私も試してみます。
2008年6月12日木曜日
学問は有効な手段として生活や仕事に役立つか
昨日は久しぶりに旧友と会った。会う場所は、双方の中間地点に近い喫茶店にした。住宅地の奥まったところにあるこの喫茶店は、まだ一度しか来ていない。それは地元県議会議員の当選祝いの会場から流れてこの店に来たものだった。私はそのとき、カラオケで”千の風になって”を歌った。同席した同年齢の女性が「コーラスの会員になってほしい」と誘ってくれたが、それ以来なんの連絡もない。カラオケは勤めていたときから私は嫌いだった。あまり上手に歌うと、アグレッシブな性格の人から嫌みを言われたり、とにかく人間関係がギクシャクする。大方の歌う者からすると、そこそこの程度の者ばかりの方が安心するし、何より楽しいのだと思う。
約束の時間通り、彼は軽トラックでやってきた。店のドアを開け、スリッパに履き替えて防音用ドアを開けると、誰かの歌声が聞こえてくる。歌っている男を見て、これまたびっくり。中学校1年生の時の級友だった。当時、彼はあまり勉強の方は得意でなかったが、性格の方は実に良い男だった。誘ってきた旧友を放置して、しばらく話し込んだ。
さて、一緒に来た旧友は以前に勤めていた役所で、同じ課になったことがあった。それ以来、歳は私の方が三歳上なのだが、家も比較的近いので付き合っている。彼は若い頃は勉強家で、大学で農業経済を専攻していたことから、毎日新聞社発行のエコノミストや中央公論など硬派のものをよく読んでいた。しかし、定年を迎える頃のなると、勉強の意欲も衰えてきたのか、硬い話をあまりしなくなった。
学問上の知識をあれこれと詰め込むことは、生きていく上で有効な手段ではないと考えるようになったのか、それとも現実の生活に忙殺され、興味を失ったのかもしれない。
私は、現在、滋賀県立大学の公開講義を受講している。前期は「人間文化論C」と「栄養生化学」をとっている。
人間文化論Cは、家族に焦点を当て、人間関係、生活デザイン、食生活についての諸問題を三人の先生が講義される。私の受講理由は、近江しゃも(軍鶏)を飼育し、鶏肉だけでなく付加価値の高い食品を開発するためには、その消費者である現在の家族の実態を知る必要があった。単なる教養を付けるためだったら、この科目にそれほどの興味を持たなかっただろう。現に、最初の授業で三人の講師のオリエンテーションの内容を聞いて、「くだらない」といって以後来なくなった公開講義受講生がいる。目的を持たなかったら、それほど興味を持てないのは当然だ。学生の受講目的が単位の取得であっても、受講を必要としているのであるから、私と立場は変わらない。でも、一般教養の習得が受講目的なら、少し動機が薄弱だと言わざるを得ない。寄席に通うのと動機があまり変わらないからだ。
栄養生化学は、マッキー生化学の翻訳版を教科書にして、栄養素の化学と代謝を理解することがねらいである。工業高校では生物は習っていないので、授業に付いていくのに四苦八苦しているが、五十年前に生物学を習っていても、ほとんど今のレベルは理解できないだろう。それほど生化学の進歩は著しいものだ。化学構造式に違和感を感じないので、水素結合など初めて聞く用語もあるが、化学に関しては自信がある。おかげでこの科目を選択したことに満足している。おそらく、公開講義の受講者の中で、私が一番満足しているのではないだろうか。柴田克己先生の授業の方法は、大事なことだけを教え、残りは個々人で自習するように言われている。この人の授業は、学問に興味をそそる教え方なのがよい。
話を主題に戻すと、やはり学問は仕事や生活に有効に機能しうるものであると、私は信じる。せっかく良いカンナを手に入れても、木の削り方を知らないと、逆目でうまく削れなかったり、また、カンナの刃を砥石で研ぐやり方を知らないと、二三回の使い切りに終わってしまう。学問もシェイブアップ、バージョンアップしていかないと、生活や仕事で成果を出すまでに至らないと思う。まあこれは一般論だから、私は自分の仕事に役立つよう、これからも勉強していきたい。
約束の時間通り、彼は軽トラックでやってきた。店のドアを開け、スリッパに履き替えて防音用ドアを開けると、誰かの歌声が聞こえてくる。歌っている男を見て、これまたびっくり。中学校1年生の時の級友だった。当時、彼はあまり勉強の方は得意でなかったが、性格の方は実に良い男だった。誘ってきた旧友を放置して、しばらく話し込んだ。
さて、一緒に来た旧友は以前に勤めていた役所で、同じ課になったことがあった。それ以来、歳は私の方が三歳上なのだが、家も比較的近いので付き合っている。彼は若い頃は勉強家で、大学で農業経済を専攻していたことから、毎日新聞社発行のエコノミストや中央公論など硬派のものをよく読んでいた。しかし、定年を迎える頃のなると、勉強の意欲も衰えてきたのか、硬い話をあまりしなくなった。
学問上の知識をあれこれと詰め込むことは、生きていく上で有効な手段ではないと考えるようになったのか、それとも現実の生活に忙殺され、興味を失ったのかもしれない。
私は、現在、滋賀県立大学の公開講義を受講している。前期は「人間文化論C」と「栄養生化学」をとっている。
人間文化論Cは、家族に焦点を当て、人間関係、生活デザイン、食生活についての諸問題を三人の先生が講義される。私の受講理由は、近江しゃも(軍鶏)を飼育し、鶏肉だけでなく付加価値の高い食品を開発するためには、その消費者である現在の家族の実態を知る必要があった。単なる教養を付けるためだったら、この科目にそれほどの興味を持たなかっただろう。現に、最初の授業で三人の講師のオリエンテーションの内容を聞いて、「くだらない」といって以後来なくなった公開講義受講生がいる。目的を持たなかったら、それほど興味を持てないのは当然だ。学生の受講目的が単位の取得であっても、受講を必要としているのであるから、私と立場は変わらない。でも、一般教養の習得が受講目的なら、少し動機が薄弱だと言わざるを得ない。寄席に通うのと動機があまり変わらないからだ。
栄養生化学は、マッキー生化学の翻訳版を教科書にして、栄養素の化学と代謝を理解することがねらいである。工業高校では生物は習っていないので、授業に付いていくのに四苦八苦しているが、五十年前に生物学を習っていても、ほとんど今のレベルは理解できないだろう。それほど生化学の進歩は著しいものだ。化学構造式に違和感を感じないので、水素結合など初めて聞く用語もあるが、化学に関しては自信がある。おかげでこの科目を選択したことに満足している。おそらく、公開講義の受講者の中で、私が一番満足しているのではないだろうか。柴田克己先生の授業の方法は、大事なことだけを教え、残りは個々人で自習するように言われている。この人の授業は、学問に興味をそそる教え方なのがよい。
話を主題に戻すと、やはり学問は仕事や生活に有効に機能しうるものであると、私は信じる。せっかく良いカンナを手に入れても、木の削り方を知らないと、逆目でうまく削れなかったり、また、カンナの刃を砥石で研ぐやり方を知らないと、二三回の使い切りに終わってしまう。学問もシェイブアップ、バージョンアップしていかないと、生活や仕事で成果を出すまでに至らないと思う。まあこれは一般論だから、私は自分の仕事に役立つよう、これからも勉強していきたい。
2008年5月26日月曜日
鶏が狙われている
4月26日に「近江しゃも」を我が家へ引き取ってから、今日でちょうど1ヶ月になる。近江しゃも普及推進協議会の東野(とうの)さんからミカン箱くらいの大きさの段ボールを受け取った。生まれたばかりのヒヨコだったので、雄雌の区別はできないらしい。ヒヨコはみんな、手羽の白い軸の先に黒い羽がわずかに付いている程度だった。それが今では随分大きくなった。滋賀県畜産技術センターの近江軍鶏の成鶏を見てきたので雄雌が鑑別できそうだから書くが、雌は2羽ほどで、残りの8羽が雄のようだ。成鶏の雄は肩から胴体に渡って金色の羽が生えていて、雌よりも4分の5くらい大きい。雄は観賞用にもなるほどきれいな鶏である。雌は黒い毛に覆われている。だから、成鶏の姿を思い浮かべると、ヒヨコに外見での雄雌の特徴があらわれているのだ。肉鳥にするのだから雄の方が良いに決まっている。
畜産技術センターから退出するとき、作業服の人がいたので、軍鶏について話を聞いた。僕が「今居る10羽から孵化させてたくさんヒヨコをとりたい。」と言ったら、「それはできませんよ。生まれた卵は近江しゃもではない。ここの畜産技術センターから出す卵でないとだめ。」とのことだった。未だ勉強不足でこの事実を説明できない。
さて本題に戻って軍鶏が狙われていることを説明しなければならない。危害を加える動物はイタチが多いらしい。頭が入るくらいの穴があれば鶏舎へ侵入できるらしい。また、地面を掘って障害物をくぐり抜けることもできるらしい。
しかし、なんといっても一番気を付けなければならないのは人間だ。鶏が盗まれるのも困る。だが、現在飼っている10羽の軍鶏の脅威は二人いる。一人は妻のいとこの男である。彼は小さい頃、自宅で鶏を飼っていたので、味を知っている。「親父が鶏をつぶして食べたがうまかった。」と言うので、「また持っていくわ。」と言わざるを得なかった。もう一人は知り合いの男で、「以前彦根で地鶏を手に入れたが、地鶏はうまい。今ではその養鶏場はやめたので、もう手に入らなくなった。」と言うので、これも持っていくことを約束した。僕のガードが緩いのでこんなことになったが、10羽のうち2羽も取られては困ってしまう。もっとも、中学校の同級生の兄貴は「また、買いに行きますのでよろしく。」とのことだった。まだ、やっと顧客が一人しか得られていないのだ。
畜産技術センターから退出するとき、作業服の人がいたので、軍鶏について話を聞いた。僕が「今居る10羽から孵化させてたくさんヒヨコをとりたい。」と言ったら、「それはできませんよ。生まれた卵は近江しゃもではない。ここの畜産技術センターから出す卵でないとだめ。」とのことだった。未だ勉強不足でこの事実を説明できない。
さて本題に戻って軍鶏が狙われていることを説明しなければならない。危害を加える動物はイタチが多いらしい。頭が入るくらいの穴があれば鶏舎へ侵入できるらしい。また、地面を掘って障害物をくぐり抜けることもできるらしい。
しかし、なんといっても一番気を付けなければならないのは人間だ。鶏が盗まれるのも困る。だが、現在飼っている10羽の軍鶏の脅威は二人いる。一人は妻のいとこの男である。彼は小さい頃、自宅で鶏を飼っていたので、味を知っている。「親父が鶏をつぶして食べたがうまかった。」と言うので、「また持っていくわ。」と言わざるを得なかった。もう一人は知り合いの男で、「以前彦根で地鶏を手に入れたが、地鶏はうまい。今ではその養鶏場はやめたので、もう手に入らなくなった。」と言うので、これも持っていくことを約束した。僕のガードが緩いのでこんなことになったが、10羽のうち2羽も取られては困ってしまう。もっとも、中学校の同級生の兄貴は「また、買いに行きますのでよろしく。」とのことだった。まだ、やっと顧客が一人しか得られていないのだ。
2008年5月10日土曜日
餌の確保がたいへんだ
4月26日(土)に近江軍鶏のヒナをもらってきてから14日になる。この間にヒナも大きくなった。ところが、各個体間では大きさにばらつきがある。最小の個体と最大の個体のあいだには親子ほどの差ができてしまった。一番小さな奴は懸命に餌を食べているのだが、大きさに目立った変化がない。人間でも勿論そんなことはあることだから、あまり心配はしていないが、すこしでも差を小さくした。この辺のノウハウを獲得したい。
当初長浜のアヤハディオで3袋買ってきたヒナ用の餌が少なくなってきた。なにしろ食欲が旺盛なのだ。この2週の間、ヒナの飼育にばかり注力できたらよかったが、田圃の直播やエンテロウイルス?かなにか知らないが、とにかく下痢になって2日も寝てしまった。おかげで何もかもいい加減になってしまった。
昨日は高月の図書館へ電話番号を調べに行った。ヒナに与える飼料の素材の確保のためである。
福井県の養鶏場に飛び入りで電話をしたら、なんとその飼料は隣町木之本町の業者が入っていた。そこでその業者へ電話をしたら事情の分かる人がいなくて、今朝、8時半に電話を掛けてくれという家人の言葉だった。
鳥の餌と言っても、いまや養鶏資材の需要は特定の業者に固定されていて、まったく知識のない新規参入者には飼料を確保することがたいへんなんだ。昔、昭和30年代には農家ではどこでも鶏を飼っていた。「ミヨサ」と呼んでいた登熟されていない籾を秋に貯めておいて、畑の菜っぱや「こぬか」と呼ぶ米ぬかなどをバケツの中で混合して水で練り、鶏に与えていた。今の時代、そんなおおらかなことはできなくなった。ミヨサなんて今は手に入らない。コンバインで田圃の中に撒いてしまう。
滋賀県立大学には公開講義という良い制度があるので、今、柴田克己教授の「栄養生化学」を受講している。大学は管理栄養士の養成を主たる目的にしているので、授業の栄養学の対象は勿論「人間」である。しかし私は、鶏の栄養学を修めることを目的としている。ヒナが栄養不良にならないよう、「鶏の管理栄養士」となることをめざしたい。そして、ヒナの効率的な肥育ができるように早くなりたい。
ビジネスモデルとしては、ヒナの肥育と鶏肉の加工を我が社で囲い込んで、他の部分は広く開放して地場産業ができあがれば良いなあと思っている。
当初長浜のアヤハディオで3袋買ってきたヒナ用の餌が少なくなってきた。なにしろ食欲が旺盛なのだ。この2週の間、ヒナの飼育にばかり注力できたらよかったが、田圃の直播やエンテロウイルス?かなにか知らないが、とにかく下痢になって2日も寝てしまった。おかげで何もかもいい加減になってしまった。
昨日は高月の図書館へ電話番号を調べに行った。ヒナに与える飼料の素材の確保のためである。
福井県の養鶏場に飛び入りで電話をしたら、なんとその飼料は隣町木之本町の業者が入っていた。そこでその業者へ電話をしたら事情の分かる人がいなくて、今朝、8時半に電話を掛けてくれという家人の言葉だった。
鳥の餌と言っても、いまや養鶏資材の需要は特定の業者に固定されていて、まったく知識のない新規参入者には飼料を確保することがたいへんなんだ。昔、昭和30年代には農家ではどこでも鶏を飼っていた。「ミヨサ」と呼んでいた登熟されていない籾を秋に貯めておいて、畑の菜っぱや「こぬか」と呼ぶ米ぬかなどをバケツの中で混合して水で練り、鶏に与えていた。今の時代、そんなおおらかなことはできなくなった。ミヨサなんて今は手に入らない。コンバインで田圃の中に撒いてしまう。
滋賀県立大学には公開講義という良い制度があるので、今、柴田克己教授の「栄養生化学」を受講している。大学は管理栄養士の養成を主たる目的にしているので、授業の栄養学の対象は勿論「人間」である。しかし私は、鶏の栄養学を修めることを目的としている。ヒナが栄養不良にならないよう、「鶏の管理栄養士」となることをめざしたい。そして、ヒナの効率的な肥育ができるように早くなりたい。
ビジネスモデルとしては、ヒナの肥育と鶏肉の加工を我が社で囲い込んで、他の部分は広く開放して地場産業ができあがれば良いなあと思っている。
2008年4月17日木曜日
アレロパシーについて
「またも難しい言葉を使いやがって!」という陰の声がありそうで、すこし気がかりだ。というのも、私は毎月開催されている村の老人会サロンで、20分ほどの定例の話を受け持っている。その場で、参加者からクギを刺される言葉が「あんまり難しいことを言わんといて。」だって。お寺で聴くお説教の方が、はるかに難しい言葉が多いと思うんだけど。”凡夫”とか”彼岸”とかの言葉は説教で聞いているが、誰も「もっと易しい言葉で言ってくれ」という注文はつけない。自分自身に関心のないことは、すべて「難しい」という言葉で門前払いするんだから、困ってしまう。「難しい」と言うのは、言葉の「偏食」だぞ。
ところで、私の娘婿は本来の意味の偏食家だ。おそらく必須アミノ酸9種類のどれかの摂取が充分ではないと思うのだが。アミノ酸の摂取には「桶の理論」というのがあって、オケの板が1枚(アミノ酸が1種類)だけ短かったら(足りなかったら)、桶の水位は(必須アミノ酸の摂取量は)短い板(摂取量の少ないアミノ酸)の高さ(量)までしか保てない(充足されない)という例えを使って説明している。娘には子供が未だできない。
さて、アレロパシーのことを書こうかな。農文協から本が出ているので、アレロパシーの概念はそちらにお任せするとして、要は「或る植物が他の種類の植物によって生育に影響を受ける現象」を言うらしい。特に印象に残った例を挙げると、麦の中には雑草が生えにくい。つまり、麦は雑草の生育を抑止する作用があるということである。
鶏の飼料として米や麦を使おうとしているので、大麦・エンバク・ハダカ麦などの栽培には誠にありがたい作用である。山の近くの田圃の土手草も抑えたいが、赤松の葉を敷き詰めると雑草を抑える作用があるらしいので、やってみたい。
雑草対策に木のチップを地面を被覆しているところを見かける。これは太陽光が届かないようにして雑草を抑制するものだ。黒のマルチシートで地面を被覆するようなものだ。アレロパシーという作用は、マルチシートの作用と違って、近接する他の種類の植物に働きかけて、発芽や生育を阻害する作用のあることだ。今年の秋は飼料用の麦を蒔こうと思っている。今から楽しみにしている。
昨秋、神社に落ちたケヤキの枯れ葉を神社の近くにある畑に入れた。肥料にするのが目的だった。今年の春4月になって、その場所に草が生えないよう、耕耘機で畑を耕した。そのときも周りに比べて格段に雑草が少なかったが、その後もケヤキの枯れ葉を撒いた部分からあまり雑草が生えてこない。ところどころ鎌で除草すれば、すぐにきれいな畑になりそうだ。これはあきらかにアレロパシーという作用が出現していると感じた。
なにしろ昨年まではこの畑はどうしようもないくらいの雑草が生えていた。私は除草剤を使わないことにしている。環境云々以前の”ものぐさ”が私の性格だ。勿論、環境問題には敏感である。だが、なにかというと除草剤のタンクを背中に背負って、所構わず薬剤を振りまくこと自体が”邪魔くさい”のである。それよりも草の生えた地面を耕耘機で耕した方が、作業が早く済んでしまう。草を除草剤で残らず枯れさせるには、少なくとも一週間は掛かる。私の流儀では、除草剤で草が無くなることの満足感よりも、作業が早く済んだ方が大きな満足感を得られるのである。だから、おおよそ私の性格が分かろうというもんだが、綱渡り的な性格、これが現在の基本的な環境への考え方にかろうじてマッチする結果になっているのだ。もともと私に環境に対する高邁な思想などあろうはずがない。
神社のケヤキの枯れ葉は、毎年、膨大な量が振ってくる。イブ・モンタンの「枯れ葉」なんか歌っていると、うしろからどやしつけられるほど膨大な量だ。そのために、神社の境内の枯れ葉の投棄場は盛り上がって、今や多くの人の寄進にかかる石垣を飲み込もうとするほどである。老人会の会長の年に、枯れ葉投棄場の腐食土を肥料にして売ろうと計画したが、観賞用の大菊を毎年作っているオタク達は、「除草剤が少しでもかかっている枯れ葉は、菊の栽培に使えない」とか、茶々を入れる。それなら除草剤は神社の境内では使わなければよいのに、草むしりが嫌だから、境内の芝生のある所まで除草剤を撒く。除草剤を撒くことに一貫した考え方があるのなら未だましな方なのだが、まったくご都合主義の者が多いから困ってしまう。そんなわけで、「どうでもしろ!」と思って放置し、現在に至っている。私は、それでも枯れ葉投棄場の満杯を心配して、個人で毎年、枯れ葉を処理している。我が家の田圃に大量に入れたり、畑に入れたりしているのだ。だから、ケヤキの葉のアレロパシーを村の人に宣伝して、今度は逆に引き取り手が多くて枯れ葉が足りなくなることを狙っている。成功させてみせるぞ。
ところで、私の娘婿は本来の意味の偏食家だ。おそらく必須アミノ酸9種類のどれかの摂取が充分ではないと思うのだが。アミノ酸の摂取には「桶の理論」というのがあって、オケの板が1枚(アミノ酸が1種類)だけ短かったら(足りなかったら)、桶の水位は(必須アミノ酸の摂取量は)短い板(摂取量の少ないアミノ酸)の高さ(量)までしか保てない(充足されない)という例えを使って説明している。娘には子供が未だできない。
さて、アレロパシーのことを書こうかな。農文協から本が出ているので、アレロパシーの概念はそちらにお任せするとして、要は「或る植物が他の種類の植物によって生育に影響を受ける現象」を言うらしい。特に印象に残った例を挙げると、麦の中には雑草が生えにくい。つまり、麦は雑草の生育を抑止する作用があるということである。
鶏の飼料として米や麦を使おうとしているので、大麦・エンバク・ハダカ麦などの栽培には誠にありがたい作用である。山の近くの田圃の土手草も抑えたいが、赤松の葉を敷き詰めると雑草を抑える作用があるらしいので、やってみたい。
雑草対策に木のチップを地面を被覆しているところを見かける。これは太陽光が届かないようにして雑草を抑制するものだ。黒のマルチシートで地面を被覆するようなものだ。アレロパシーという作用は、マルチシートの作用と違って、近接する他の種類の植物に働きかけて、発芽や生育を阻害する作用のあることだ。今年の秋は飼料用の麦を蒔こうと思っている。今から楽しみにしている。
昨秋、神社に落ちたケヤキの枯れ葉を神社の近くにある畑に入れた。肥料にするのが目的だった。今年の春4月になって、その場所に草が生えないよう、耕耘機で畑を耕した。そのときも周りに比べて格段に雑草が少なかったが、その後もケヤキの枯れ葉を撒いた部分からあまり雑草が生えてこない。ところどころ鎌で除草すれば、すぐにきれいな畑になりそうだ。これはあきらかにアレロパシーという作用が出現していると感じた。
なにしろ昨年まではこの畑はどうしようもないくらいの雑草が生えていた。私は除草剤を使わないことにしている。環境云々以前の”ものぐさ”が私の性格だ。勿論、環境問題には敏感である。だが、なにかというと除草剤のタンクを背中に背負って、所構わず薬剤を振りまくこと自体が”邪魔くさい”のである。それよりも草の生えた地面を耕耘機で耕した方が、作業が早く済んでしまう。草を除草剤で残らず枯れさせるには、少なくとも一週間は掛かる。私の流儀では、除草剤で草が無くなることの満足感よりも、作業が早く済んだ方が大きな満足感を得られるのである。だから、おおよそ私の性格が分かろうというもんだが、綱渡り的な性格、これが現在の基本的な環境への考え方にかろうじてマッチする結果になっているのだ。もともと私に環境に対する高邁な思想などあろうはずがない。
神社のケヤキの枯れ葉は、毎年、膨大な量が振ってくる。イブ・モンタンの「枯れ葉」なんか歌っていると、うしろからどやしつけられるほど膨大な量だ。そのために、神社の境内の枯れ葉の投棄場は盛り上がって、今や多くの人の寄進にかかる石垣を飲み込もうとするほどである。老人会の会長の年に、枯れ葉投棄場の腐食土を肥料にして売ろうと計画したが、観賞用の大菊を毎年作っているオタク達は、「除草剤が少しでもかかっている枯れ葉は、菊の栽培に使えない」とか、茶々を入れる。それなら除草剤は神社の境内では使わなければよいのに、草むしりが嫌だから、境内の芝生のある所まで除草剤を撒く。除草剤を撒くことに一貫した考え方があるのなら未だましな方なのだが、まったくご都合主義の者が多いから困ってしまう。そんなわけで、「どうでもしろ!」と思って放置し、現在に至っている。私は、それでも枯れ葉投棄場の満杯を心配して、個人で毎年、枯れ葉を処理している。我が家の田圃に大量に入れたり、畑に入れたりしているのだ。だから、ケヤキの葉のアレロパシーを村の人に宣伝して、今度は逆に引き取り手が多くて枯れ葉が足りなくなることを狙っている。成功させてみせるぞ。
2008年2月29日金曜日
エントロピーについて
本や雑誌を眺めていると、このところ「エントロピー」という言葉が目に付く。目に付くのは、私自身がエントロピーについて関心を持っているからにほかならない。今から20年ほど前に、雑誌でその概念を知って、大いに心を動かされたものである。その頃は環境問題が盛んに議論されていて、食堂の割り箸を使わずに、自分の箸を持ち歩く人が出始めたころだった。高校の事務室のコピー機に、「地球のエントロピーの増大を防ぐためにも、森林を伐採して作られる紙の使用をできるだけ節約するように」という趣旨のビラを、貼り付けた。外国産の木材からパルプを得て紙が作られるのだから、紙の使用量と減らせば外国にある森林が守られるという考え方だ。物理の先生がそれを見て、「うーん」と腑に落ちないような顔をしていた。エントロピーの用語の使い方に問題がありそうだということだと思う。エントロピーの本来の意味は、熱力学の法則そのものの説明で用いられるものだからだと思う。
私にとって二度目のエントロピーへの接近は、第2回でも書いたように福岡伸一著の「生物と無生物のあいだ」(講談社現代新書)を読んだことであり、同書に引用されていた清水 博著の「生命を捉えなおす」(中公新書)も読んだためでもあった。エントロピーに関する記述で、清水氏はミクロな状態の総数の対数を使ってマクロな系の状態の多様性を示す指標とし、この指標を「エントロピーと呼ぶことにします」と定義されている。私は学者ではないのだから、エントロピーを正確に定義して正しく使用する義務はない。生物学におけるその中心的な概念をセンシングすれば、それで足りるのだから。
以前から不思議な思いで見ていた現象がある。夏、ホースで水を撒いているとき、ホースの先端を手から放すと、まるで蛇のようにうねり始める。ホースがまるで意志を持った生き物のように見える。でも、ホースが受ける水圧を緩め続ければ、やがて動かなくなる。このような単なる物理現象が、どのような経過をたどってDNAを備えた生物に変身したのか私は分からない。しかし、時間の経過とともにエントロピーが増大するという自然の法則に逆らって、子孫を残すことができる生物に変身したことは、本当に驚くべきことである。
週刊ダイヤモンド3月1日号には上田氏の「3分間ドラッカー」というコラムに、「企業の役割は経済のエントロピーの法則を打ち破ることだ」と書かれている。この場合のエントロピーの使用例は、熱力学の法則や清水氏の定義するものとも大きく懸け離れている。それゆえにドラッカーは「経済のエントロピーの法則」と言ったのだと思う。今やエントロピーは、①「秩序から無秩序への移行」あるいはその逆の変化、②量的変化から質的変化、に対する比喩として使われるようになった感がある。
私の話がエントロピーという言葉の国語的な解釈に終始してしまった。常識を越える例外的な現象があることを、サムシング・グレイトの存在に置き換えて理解した方が、本当は私にはわかりやすいのだが。
私にとって二度目のエントロピーへの接近は、第2回でも書いたように福岡伸一著の「生物と無生物のあいだ」(講談社現代新書)を読んだことであり、同書に引用されていた清水 博著の「生命を捉えなおす」(中公新書)も読んだためでもあった。エントロピーに関する記述で、清水氏はミクロな状態の総数の対数を使ってマクロな系の状態の多様性を示す指標とし、この指標を「エントロピーと呼ぶことにします」と定義されている。私は学者ではないのだから、エントロピーを正確に定義して正しく使用する義務はない。生物学におけるその中心的な概念をセンシングすれば、それで足りるのだから。
以前から不思議な思いで見ていた現象がある。夏、ホースで水を撒いているとき、ホースの先端を手から放すと、まるで蛇のようにうねり始める。ホースがまるで意志を持った生き物のように見える。でも、ホースが受ける水圧を緩め続ければ、やがて動かなくなる。このような単なる物理現象が、どのような経過をたどってDNAを備えた生物に変身したのか私は分からない。しかし、時間の経過とともにエントロピーが増大するという自然の法則に逆らって、子孫を残すことができる生物に変身したことは、本当に驚くべきことである。
週刊ダイヤモンド3月1日号には上田氏の「3分間ドラッカー」というコラムに、「企業の役割は経済のエントロピーの法則を打ち破ることだ」と書かれている。この場合のエントロピーの使用例は、熱力学の法則や清水氏の定義するものとも大きく懸け離れている。それゆえにドラッカーは「経済のエントロピーの法則」と言ったのだと思う。今やエントロピーは、①「秩序から無秩序への移行」あるいはその逆の変化、②量的変化から質的変化、に対する比喩として使われるようになった感がある。
私の話がエントロピーという言葉の国語的な解釈に終始してしまった。常識を越える例外的な現象があることを、サムシング・グレイトの存在に置き換えて理解した方が、本当は私にはわかりやすいのだが。
2008年2月24日日曜日
大学の公開講義
滋賀県立大学から20年度前期公開講義のお知らせが来た。今回も受けようと思っている。受講目的は、今年から始める養鶏の試験的飼育に役立たせるためだ。募集要項では89科目あるが、とりあえず2科目を受講しようと思っている。
一つは「栄養生化学」である。柴田克己教授の担当。概要は、健康の維持・増進の基になる栄養素の化学と栄養素の代謝を理解することだ。講義の内容は人間を対象にするものだが、私は鶏に置き換えて考えようと、もくろんでいる。講義は全部で14回あって、アミノ酸・ペプチド・タンパク、酵素、ビタミン、ミネラル、糖質、糖質の代謝、クエン酸サイクル、電子伝達と参加的リン参加、脂質と膜、脂質の代謝、アミノ酸の生合成、アミノ酸の異化、核酸、代謝の総合的理解、となっている。
福岡伸一氏の「生物と無生物のあいだ」を先日読んだ。文学的素養が随所に見られ、ありきたりの推理小説よりもはるかに面白く、どきどきしながら読み通した。私の息子もこの本を読んでいたので感想を聞いたら、「なにを言いたいのか、よく分からない」とのことだった。確かにそんな傾向はあるが、私は生化学の知識を得ることが目的だったので、初学者に対する懇切丁寧な説明で、難解なこの分野のガイダンス的な理解に役立った。だから、県立大の栄養生化学に期待している。テキストは、「マッキー生化学」だが、福岡氏が「監訳」で関わっているのも何かの縁だ。
鶏の生化学ということにすり替えて理解しようと思う。鳥類は爬虫類から分化したものだと思っているが、人間も遠い祖先はその他の生物とどこかで繋がっているのだから、栄養も似通っているんじゃないだろうか。鳥類には気嚢があり、酸欠状態でも生き延びることができるが、鶏のその他いろんな身体的特性を利用して、早く大きく生育させる方法を考えたい。また、その辺を知的財産権として固められたらいいんだけどなあ。
二つ目の受講科目は「人間文化論C」である。家族、住居、食事の三分野を土屋教授、早川教授、松嶋講師が担当される。鶏は早くから人が飼育を始めているので、人間の文化との関わりはきわめて深いものがある。鶏の原種はインドシナ半島ではなかったろうか。とにかく現在でも、東南アジアでは沢山飼われている。詳しくは知らないが、家族と鶏が同居しているらしいことから、今、問題にされている鳥インフルエンザの人への感染が危惧されている。グーグルニュースのインド版を見ていても、健康欄には鳥インフルエンザの鶏への感染が載っている。消毒や殺すことを嫌がって、住民が抵抗しているらしい。イギリスでも野鳥がH5N1型に罹っているらしい。インドネシアや中国でも、鶏から人への感染が報道されている。H5N1型鳥インフルエンザについては、厚生労働省・国立感染症研究所・全国保健所長会、それから岡田晴恵氏・小樽保健所のホームページが詳しい。話があちこち飛んでしまったが、鶏と人間の文化史を頭に置いてこの講義を聴こうと思っている。
こんな分類はあるのかどうか知らないが、私は、食事の調理法を三つに分けたい。日本のように水が豊富なところでは、「水多使用型調理法」。一方、乾燥地帯など飲料水が容易に得られないところの「乾式調理法」、そして「中間型」とする。(調理の専門家でもない者がこんなことを主張していいのかな。)
日本人の清潔好きは、水が豊富だからできることであり、調理の際にもやたらなんでも洗いたがる。もちろん水が豊富だからいろいろの植物が生育するので、それを採取して食材にする。植物にはアルカロイドが含まれているので、それを煮てアルカロイドを取り除く。あっそうか、日本では植物性の食材を多く使うから「水多使用型」になるんだ。その点、乾燥地帯では羊などの動物性の食材を使うから水の使用が少なくて済む。乾燥地帯のモンゴルなんかでは、羊の血まで食材にするらしい。
私の言いたいことは、日本では植物性の食材を中心とするから、よく水を使うことになり、手間が掛かる。鶏肉だって野菜と一緒に煮ることが多いから、手間が掛かる。養鶏をして鶏肉を供給する立場になると、人の生活文化に沿った食材を提供すべきであり、多様化する食事のスタイルに適合する食材を開発しなければならない。うんそれだ。人間文化論をしっかり聴講して、食材を開発し、その国に合ったものを輸出するのだ。だいぶん大きな話になってきたが、このくらいは事業の理念として考えておかないと。H5N1型のウイルスを持った野鳥がもうすぐ日本にも飛んできて、そのうちパンデミックが起きようとしている矢先に、養鶏を真正面から取り組もうとするのだから、リスクも大きいなあ。
皆さん、パンデミックの対策は少しは進んでいますか。昔、オイルショックの時にトイレットペーパーが品切れになったように、パンデミックになればマスクや解熱剤は品切れになりますよ。雪が降ってスコップが品切れになるように。さきほどのホームページを見て、すこしづつ準備をしていきましょう。
一つは「栄養生化学」である。柴田克己教授の担当。概要は、健康の維持・増進の基になる栄養素の化学と栄養素の代謝を理解することだ。講義の内容は人間を対象にするものだが、私は鶏に置き換えて考えようと、もくろんでいる。講義は全部で14回あって、アミノ酸・ペプチド・タンパク、酵素、ビタミン、ミネラル、糖質、糖質の代謝、クエン酸サイクル、電子伝達と参加的リン参加、脂質と膜、脂質の代謝、アミノ酸の生合成、アミノ酸の異化、核酸、代謝の総合的理解、となっている。
福岡伸一氏の「生物と無生物のあいだ」を先日読んだ。文学的素養が随所に見られ、ありきたりの推理小説よりもはるかに面白く、どきどきしながら読み通した。私の息子もこの本を読んでいたので感想を聞いたら、「なにを言いたいのか、よく分からない」とのことだった。確かにそんな傾向はあるが、私は生化学の知識を得ることが目的だったので、初学者に対する懇切丁寧な説明で、難解なこの分野のガイダンス的な理解に役立った。だから、県立大の栄養生化学に期待している。テキストは、「マッキー生化学」だが、福岡氏が「監訳」で関わっているのも何かの縁だ。
鶏の生化学ということにすり替えて理解しようと思う。鳥類は爬虫類から分化したものだと思っているが、人間も遠い祖先はその他の生物とどこかで繋がっているのだから、栄養も似通っているんじゃないだろうか。鳥類には気嚢があり、酸欠状態でも生き延びることができるが、鶏のその他いろんな身体的特性を利用して、早く大きく生育させる方法を考えたい。また、その辺を知的財産権として固められたらいいんだけどなあ。
二つ目の受講科目は「人間文化論C」である。家族、住居、食事の三分野を土屋教授、早川教授、松嶋講師が担当される。鶏は早くから人が飼育を始めているので、人間の文化との関わりはきわめて深いものがある。鶏の原種はインドシナ半島ではなかったろうか。とにかく現在でも、東南アジアでは沢山飼われている。詳しくは知らないが、家族と鶏が同居しているらしいことから、今、問題にされている鳥インフルエンザの人への感染が危惧されている。グーグルニュースのインド版を見ていても、健康欄には鳥インフルエンザの鶏への感染が載っている。消毒や殺すことを嫌がって、住民が抵抗しているらしい。イギリスでも野鳥がH5N1型に罹っているらしい。インドネシアや中国でも、鶏から人への感染が報道されている。H5N1型鳥インフルエンザについては、厚生労働省・国立感染症研究所・全国保健所長会、それから岡田晴恵氏・小樽保健所のホームページが詳しい。話があちこち飛んでしまったが、鶏と人間の文化史を頭に置いてこの講義を聴こうと思っている。
こんな分類はあるのかどうか知らないが、私は、食事の調理法を三つに分けたい。日本のように水が豊富なところでは、「水多使用型調理法」。一方、乾燥地帯など飲料水が容易に得られないところの「乾式調理法」、そして「中間型」とする。(調理の専門家でもない者がこんなことを主張していいのかな。)
日本人の清潔好きは、水が豊富だからできることであり、調理の際にもやたらなんでも洗いたがる。もちろん水が豊富だからいろいろの植物が生育するので、それを採取して食材にする。植物にはアルカロイドが含まれているので、それを煮てアルカロイドを取り除く。あっそうか、日本では植物性の食材を多く使うから「水多使用型」になるんだ。その点、乾燥地帯では羊などの動物性の食材を使うから水の使用が少なくて済む。乾燥地帯のモンゴルなんかでは、羊の血まで食材にするらしい。
私の言いたいことは、日本では植物性の食材を中心とするから、よく水を使うことになり、手間が掛かる。鶏肉だって野菜と一緒に煮ることが多いから、手間が掛かる。養鶏をして鶏肉を供給する立場になると、人の生活文化に沿った食材を提供すべきであり、多様化する食事のスタイルに適合する食材を開発しなければならない。うんそれだ。人間文化論をしっかり聴講して、食材を開発し、その国に合ったものを輸出するのだ。だいぶん大きな話になってきたが、このくらいは事業の理念として考えておかないと。H5N1型のウイルスを持った野鳥がもうすぐ日本にも飛んできて、そのうちパンデミックが起きようとしている矢先に、養鶏を真正面から取り組もうとするのだから、リスクも大きいなあ。
皆さん、パンデミックの対策は少しは進んでいますか。昔、オイルショックの時にトイレットペーパーが品切れになったように、パンデミックになればマスクや解熱剤は品切れになりますよ。雪が降ってスコップが品切れになるように。さきほどのホームページを見て、すこしづつ準備をしていきましょう。
2008年2月21日木曜日
第5回アグリビジネスーカフェの報告
昨夜、3時間かけて作成した文章が投稿に失敗して飛んでしまった。でも、今から考えると少し性急に投稿しすぎたようだ。手紙は一日置いて発送せよという言葉の通り、やはり見直す時間が要る。
さて、2月8日、長浜ドーム研修館で開催された標記の会合の結果を、再度、投稿する。
はじめは、帝京平成大学教授の橋本直樹氏の「これからの農業食品の安全と安心」について講義があった。「安全」は科学の問題であり、「安心」は心の問題だとのこと。もちろん、科学は仮説であり、新たな知見が得られれば改められることは言うまでもない。
ここで簡単にADI(Acceptable Daily Intake)一日許容摂取量について確認しておく。
中毒には急性中毒と慢性中毒とがあるが、ADIは毎日一生とり続けても慢性中毒にならない量である。たとえば、ソルビン酸のADIは、25㎎/㎏体重/日であり、日本では成人の体重が50㎏とされているので、1日あたり 1250㎎が許容量である。このADIは、ねずみに毎日与えて問題がなかった量、すなわち「無毒性量(NOAEL)」に安全係数として1/100を掛けた数値である。
食品添加物・農薬のADIは、国立薬品食品衛生研究所の食品添加物や農薬のADI関連情報データベースから検索できる。メタミドホスやクロルピリホスなどの中国関連殺虫剤も検索できる。
内分泌攪乱物質である環境ホルモンでは、船や漁網に貝殻が付着しないように塗る塗料のトリブチルスズ、子供の食器に使われたことのあるポリカーボネートから溶出するビスフェノールが問題視されている。ビニール手袋の可塑剤に使われるDEHP(フタル酸ジエチルヘキシル)やスチレン樹脂から溶出するスチレンモノマー、スチレンダイマーにも気を付けなければならない。
四分の一の食品が捨てられている現実、食べ過ぎによって肥満になり、糖尿病や心臓病になることも考えて見る必要があるとのことであった。
元近畿農政局長の重田 勉氏の「小麦関連産業の現状と課題」もおもしろかった。
小麦の主要産地は、北米、南米、豪州、ヨーロッパであるが、南半球と北半球とでは収穫時期や天候が違うのでリスクが相殺される。また、小麦の価格は、シカゴの穀物市場の相場が基準とされてグローバルな統一価格であるので、価格の変動が少ない。ただし、豪州の干ばつやバイオ燃料の生産、投機資金の流入などの要因で、最近は大幅な値上げになっている。
小麦粉はタンパク質の含有量によって強力粉(キョウリキコと読む。食パン用)、準強力粉(ラーメン、餃子の皮)、中力粉(うどん、即席麺、ビスケット、和菓子)、薄力粉(カステラ、ケーキ、和菓子・天ぷら粉)とデゥラム・セモリナ(スパゲッティ、マカロニ)に分かれている。小麦の輸入数量は18年度で474万トン。これに対し、国産小麦は63万トンであり、全体の11%強にしかならない。
遺伝子組替え小麦はモンサント社が米国で認可申請をした。安全は確認されたが、消費者が受け入れないようだ。砂漠にも小麦が植えられると、需給が変わってくるうえ、価格も下がることになるので、このGM小麦は時期尚早だと言っておられた。
小麦についてはグローバルに取引されるので、日本の生産者も、もっと勉強する必要があると思う。
私も二点質問しておいた。
1.飼料用米が一般米に混入しないように魚粉を混ぜさせられるが、色を着けるとか、なにかの物質
を混入して検知器で確認するなど効率的な方法はないか。
2.製粉技術が向上して、米を麦の代用に使うようになっているようだが、今後の見通しを聞きたい。
先日読んだ本(梅田望夫さんか養老たけしさん?)に「西欧人はろくな物を食っていないのに、突然びっくりするような発明や発見をする。この原因は、食事の準備に手間を掛けずに考える時間を持っているからだ。」という意味のことが書いてあった。この見方に痛く感動した。
確かに、米食の食事の準備は大変手間が掛かる。だから、外国でも日本食が人気なのは当然なのだ。ゴッホの描いたジャガイモを食べる家族の絵を見てみなさいよ。いたって簡単なメニューだ。テレビで外国の食事を放送していたが、缶詰を開けたり、果物を切ったり、袋からごそごそ何かを出してきて食っている。パンは大してうまいものではないが、手間が掛からない。パン屋に買いに行くだけで手に入る。日本でもコンビニのおにぎりが人気なのは、よく分かる。この忙しい世の中に昔通りの食事を作っていては手間が大変だもんね。まあ昔に比べれば、炊飯器や電子レンジなど家庭電気製品が出てきたのでかなり省力化されている。しかし、まだ省力化の余地もありそうだし、必要だ。
話が多岐に渡って焦点がぼけたので、ここではっきり言おう。パンに比べてご飯は、持ち運びにも不便だ。ご飯の弁当なんか、お箸でつまんで、こぼれないように食べなければならない。水分が多いので、夏は腐りやすい。だから、値段の高いこともあって、米の消費量は減り続けている。パンのように簡便に持ち運びが出来て、食べやすい調理法が求められる。そうなれば、家事から解放された女性がもっと社会進出できるし、生み出された時間をボーッと過ごしながら、本当に必要なことを考えるようになるのではなかろうか。
さて、2月8日、長浜ドーム研修館で開催された標記の会合の結果を、再度、投稿する。
はじめは、帝京平成大学教授の橋本直樹氏の「これからの農業食品の安全と安心」について講義があった。「安全」は科学の問題であり、「安心」は心の問題だとのこと。もちろん、科学は仮説であり、新たな知見が得られれば改められることは言うまでもない。
ここで簡単にADI(Acceptable Daily Intake)一日許容摂取量について確認しておく。
中毒には急性中毒と慢性中毒とがあるが、ADIは毎日一生とり続けても慢性中毒にならない量である。たとえば、ソルビン酸のADIは、25㎎/㎏体重/日であり、日本では成人の体重が50㎏とされているので、1日あたり 1250㎎が許容量である。このADIは、ねずみに毎日与えて問題がなかった量、すなわち「無毒性量(NOAEL)」に安全係数として1/100を掛けた数値である。
食品添加物・農薬のADIは、国立薬品食品衛生研究所の食品添加物や農薬のADI関連情報データベースから検索できる。メタミドホスやクロルピリホスなどの中国関連殺虫剤も検索できる。
内分泌攪乱物質である環境ホルモンでは、船や漁網に貝殻が付着しないように塗る塗料のトリブチルスズ、子供の食器に使われたことのあるポリカーボネートから溶出するビスフェノールが問題視されている。ビニール手袋の可塑剤に使われるDEHP(フタル酸ジエチルヘキシル)やスチレン樹脂から溶出するスチレンモノマー、スチレンダイマーにも気を付けなければならない。
四分の一の食品が捨てられている現実、食べ過ぎによって肥満になり、糖尿病や心臓病になることも考えて見る必要があるとのことであった。
元近畿農政局長の重田 勉氏の「小麦関連産業の現状と課題」もおもしろかった。
小麦の主要産地は、北米、南米、豪州、ヨーロッパであるが、南半球と北半球とでは収穫時期や天候が違うのでリスクが相殺される。また、小麦の価格は、シカゴの穀物市場の相場が基準とされてグローバルな統一価格であるので、価格の変動が少ない。ただし、豪州の干ばつやバイオ燃料の生産、投機資金の流入などの要因で、最近は大幅な値上げになっている。
小麦粉はタンパク質の含有量によって強力粉(キョウリキコと読む。食パン用)、準強力粉(ラーメン、餃子の皮)、中力粉(うどん、即席麺、ビスケット、和菓子)、薄力粉(カステラ、ケーキ、和菓子・天ぷら粉)とデゥラム・セモリナ(スパゲッティ、マカロニ)に分かれている。小麦の輸入数量は18年度で474万トン。これに対し、国産小麦は63万トンであり、全体の11%強にしかならない。
遺伝子組替え小麦はモンサント社が米国で認可申請をした。安全は確認されたが、消費者が受け入れないようだ。砂漠にも小麦が植えられると、需給が変わってくるうえ、価格も下がることになるので、このGM小麦は時期尚早だと言っておられた。
小麦についてはグローバルに取引されるので、日本の生産者も、もっと勉強する必要があると思う。
私も二点質問しておいた。
1.飼料用米が一般米に混入しないように魚粉を混ぜさせられるが、色を着けるとか、なにかの物質
を混入して検知器で確認するなど効率的な方法はないか。
2.製粉技術が向上して、米を麦の代用に使うようになっているようだが、今後の見通しを聞きたい。
先日読んだ本(梅田望夫さんか養老たけしさん?)に「西欧人はろくな物を食っていないのに、突然びっくりするような発明や発見をする。この原因は、食事の準備に手間を掛けずに考える時間を持っているからだ。」という意味のことが書いてあった。この見方に痛く感動した。
確かに、米食の食事の準備は大変手間が掛かる。だから、外国でも日本食が人気なのは当然なのだ。ゴッホの描いたジャガイモを食べる家族の絵を見てみなさいよ。いたって簡単なメニューだ。テレビで外国の食事を放送していたが、缶詰を開けたり、果物を切ったり、袋からごそごそ何かを出してきて食っている。パンは大してうまいものではないが、手間が掛からない。パン屋に買いに行くだけで手に入る。日本でもコンビニのおにぎりが人気なのは、よく分かる。この忙しい世の中に昔通りの食事を作っていては手間が大変だもんね。まあ昔に比べれば、炊飯器や電子レンジなど家庭電気製品が出てきたのでかなり省力化されている。しかし、まだ省力化の余地もありそうだし、必要だ。
話が多岐に渡って焦点がぼけたので、ここではっきり言おう。パンに比べてご飯は、持ち運びにも不便だ。ご飯の弁当なんか、お箸でつまんで、こぼれないように食べなければならない。水分が多いので、夏は腐りやすい。だから、値段の高いこともあって、米の消費量は減り続けている。パンのように簡便に持ち運びが出来て、食べやすい調理法が求められる。そうなれば、家事から解放された女性がもっと社会進出できるし、生み出された時間をボーッと過ごしながら、本当に必要なことを考えるようになるのではなかろうか。
2008年2月9日土曜日
表現者として登場ぉ、登場ぉっ !
ブログの表現者として、はじめて登壇いたしました長 謙自(オサ ケンジ pen name)です。 私がこのブログを立ち上げた目的は、今年から始める養鶏の試験研究に関して、①自分の考えをまとめるために記述し、②公開することによって、諸賢のご指導をいただこうとするものです。この考え方は、私の長男が読んでいた「ウェブ進化論」梅田望夫著・ちくま新書に触発されたものです。
田舎に住んでいますと、住人の旺盛な好奇心にさらされることが多いのです。空き巣予防のためにも周囲の住人がもっと不審者に好奇心を関心を持って欲しいときには、知らぬ振りを決め込まれたり、逆に家庭内のことには関心を持ってもらいたくないのに、夫婦げんかが知れ渡っていたりというように、住人の好奇心が良い方向に機能しないことが多々あるわけですが、それにもかかわれず私は従来から、できるだけ知らしめるように心がけていました。近年、プライバシーが大きな権利のような顔をしてのし歩いていますが、秘密は、秘密扱いにしようとするから秘密になるという面が大いにあります。秘密をできるだけ公開することによって、閉塞した社会から受けるストレスを少なくしようと努めているのです。
今回、望田氏の本を読んで、「表現者の考えをウェブ上に公開することによって多くの人の目に触れ、一人で考えているよりもはるかに生産的な考えへと変っていく」という主張に、私は同じ考えであり同じ問題の捉え方だと感じました。そんなわけで、さっそくブログを本日立ち上げたところです。
初回は、まず、私の出生の段をご紹介いたします。私は昭和17年、満州国牡丹江市掖河の関東軍陸軍官舎で出生しました。父は軍属、母は電話交換手でした。私は「達夫」という名前を付けられましたが、父の本籍地では、祖父が役場に別の名前を届けてしまいました。戦前、朝日新聞の第一回懸賞小説の当選者の名前を真似たようです。祖父は戦前の講談社発行の雑誌「キング」を愛読しておりましたので、孫の名前を引用したのかも知れません。
以後の経歴を一度に詳しく書いても、小説ではありませんので、意味を成しません。でも、身の上話がまったく役に立たないわけでもありません。よって、本来の農業と養鶏についての工夫をまとめながら、必要の都度、身の上話にも言及していこうと思っています。
このところ「これは明らかに自分にとってブレークスルーだ」と思えることが何度かありました。ブレークスルーは個人の感度を高くすれば、短期間に何度もあると思えてきました。農業・養鶏の課題というと、商品の開発に重点が置かれますが、マーケティングも大切なことですし、大きく言えば、自然的・社会的環境との相互作用にも目を向けなければなりません。そんなことで、何が飛び出すか分かりませんが、ひたすら書き連ねようと思っています。ご意見を期待しています。
田舎に住んでいますと、住人の旺盛な好奇心にさらされることが多いのです。空き巣予防のためにも周囲の住人がもっと不審者に好奇心を関心を持って欲しいときには、知らぬ振りを決め込まれたり、逆に家庭内のことには関心を持ってもらいたくないのに、夫婦げんかが知れ渡っていたりというように、住人の好奇心が良い方向に機能しないことが多々あるわけですが、それにもかかわれず私は従来から、できるだけ知らしめるように心がけていました。近年、プライバシーが大きな権利のような顔をしてのし歩いていますが、秘密は、秘密扱いにしようとするから秘密になるという面が大いにあります。秘密をできるだけ公開することによって、閉塞した社会から受けるストレスを少なくしようと努めているのです。
今回、望田氏の本を読んで、「表現者の考えをウェブ上に公開することによって多くの人の目に触れ、一人で考えているよりもはるかに生産的な考えへと変っていく」という主張に、私は同じ考えであり同じ問題の捉え方だと感じました。そんなわけで、さっそくブログを本日立ち上げたところです。
初回は、まず、私の出生の段をご紹介いたします。私は昭和17年、満州国牡丹江市掖河の関東軍陸軍官舎で出生しました。父は軍属、母は電話交換手でした。私は「達夫」という名前を付けられましたが、父の本籍地では、祖父が役場に別の名前を届けてしまいました。戦前、朝日新聞の第一回懸賞小説の当選者の名前を真似たようです。祖父は戦前の講談社発行の雑誌「キング」を愛読しておりましたので、孫の名前を引用したのかも知れません。
以後の経歴を一度に詳しく書いても、小説ではありませんので、意味を成しません。でも、身の上話がまったく役に立たないわけでもありません。よって、本来の農業と養鶏についての工夫をまとめながら、必要の都度、身の上話にも言及していこうと思っています。
このところ「これは明らかに自分にとってブレークスルーだ」と思えることが何度かありました。ブレークスルーは個人の感度を高くすれば、短期間に何度もあると思えてきました。農業・養鶏の課題というと、商品の開発に重点が置かれますが、マーケティングも大切なことですし、大きく言えば、自然的・社会的環境との相互作用にも目を向けなければなりません。そんなことで、何が飛び出すか分かりませんが、ひたすら書き連ねようと思っています。ご意見を期待しています。
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