2008年4月17日木曜日

アレロパシーについて

 「またも難しい言葉を使いやがって!」という陰の声がありそうで、すこし気がかりだ。というのも、私は毎月開催されている村の老人会サロンで、20分ほどの定例の話を受け持っている。その場で、参加者からクギを刺される言葉が「あんまり難しいことを言わんといて。」だって。お寺で聴くお説教の方が、はるかに難しい言葉が多いと思うんだけど。”凡夫”とか”彼岸”とかの言葉は説教で聞いているが、誰も「もっと易しい言葉で言ってくれ」という注文はつけない。自分自身に関心のないことは、すべて「難しい」という言葉で門前払いするんだから、困ってしまう。「難しい」と言うのは、言葉の「偏食」だぞ。

 ところで、私の娘婿は本来の意味の偏食家だ。おそらく必須アミノ酸9種類のどれかの摂取が充分ではないと思うのだが。アミノ酸の摂取には「桶の理論」というのがあって、オケの板が1枚(アミノ酸が1種類)だけ短かったら(足りなかったら)、桶の水位は(必須アミノ酸の摂取量は)短い板(摂取量の少ないアミノ酸)の高さ(量)までしか保てない(充足されない)という例えを使って説明している。娘には子供が未だできない。 

 さて、アレロパシーのことを書こうかな。農文協から本が出ているので、アレロパシーの概念はそちらにお任せするとして、要は「或る植物が他の種類の植物によって生育に影響を受ける現象」を言うらしい。特に印象に残った例を挙げると、麦の中には雑草が生えにくい。つまり、麦は雑草の生育を抑止する作用があるということである。

 鶏の飼料として米や麦を使おうとしているので、大麦・エンバク・ハダカ麦などの栽培には誠にありがたい作用である。山の近くの田圃の土手草も抑えたいが、赤松の葉を敷き詰めると雑草を抑える作用があるらしいので、やってみたい。

 雑草対策に木のチップを地面を被覆しているところを見かける。これは太陽光が届かないようにして雑草を抑制するものだ。黒のマルチシートで地面を被覆するようなものだ。アレロパシーという作用は、マルチシートの作用と違って、近接する他の種類の植物に働きかけて、発芽や生育を阻害する作用のあることだ。今年の秋は飼料用の麦を蒔こうと思っている。今から楽しみにしている。

 昨秋、神社に落ちたケヤキの枯れ葉を神社の近くにある畑に入れた。肥料にするのが目的だった。今年の春4月になって、その場所に草が生えないよう、耕耘機で畑を耕した。そのときも周りに比べて格段に雑草が少なかったが、その後もケヤキの枯れ葉を撒いた部分からあまり雑草が生えてこない。ところどころ鎌で除草すれば、すぐにきれいな畑になりそうだ。これはあきらかにアレロパシーという作用が出現していると感じた。
 
 なにしろ昨年まではこの畑はどうしようもないくらいの雑草が生えていた。私は除草剤を使わないことにしている。環境云々以前の”ものぐさ”が私の性格だ。勿論、環境問題には敏感である。だが、なにかというと除草剤のタンクを背中に背負って、所構わず薬剤を振りまくこと自体が”邪魔くさい”のである。それよりも草の生えた地面を耕耘機で耕した方が、作業が早く済んでしまう。草を除草剤で残らず枯れさせるには、少なくとも一週間は掛かる。私の流儀では、除草剤で草が無くなることの満足感よりも、作業が早く済んだ方が大きな満足感を得られるのである。だから、おおよそ私の性格が分かろうというもんだが、綱渡り的な性格、これが現在の基本的な環境への考え方にかろうじてマッチする結果になっているのだ。もともと私に環境に対する高邁な思想などあろうはずがない。

 神社のケヤキの枯れ葉は、毎年、膨大な量が振ってくる。イブ・モンタンの「枯れ葉」なんか歌っていると、うしろからどやしつけられるほど膨大な量だ。そのために、神社の境内の枯れ葉の投棄場は盛り上がって、今や多くの人の寄進にかかる石垣を飲み込もうとするほどである。老人会の会長の年に、枯れ葉投棄場の腐食土を肥料にして売ろうと計画したが、観賞用の大菊を毎年作っているオタク達は、「除草剤が少しでもかかっている枯れ葉は、菊の栽培に使えない」とか、茶々を入れる。それなら除草剤は神社の境内では使わなければよいのに、草むしりが嫌だから、境内の芝生のある所まで除草剤を撒く。除草剤を撒くことに一貫した考え方があるのなら未だましな方なのだが、まったくご都合主義の者が多いから困ってしまう。そんなわけで、「どうでもしろ!」と思って放置し、現在に至っている。私は、それでも枯れ葉投棄場の満杯を心配して、個人で毎年、枯れ葉を処理している。我が家の田圃に大量に入れたり、畑に入れたりしているのだ。だから、ケヤキの葉のアレロパシーを村の人に宣伝して、今度は逆に引き取り手が多くて枯れ葉が足りなくなることを狙っている。成功させてみせるぞ。

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