2008年2月29日金曜日

エントロピーについて

  本や雑誌を眺めていると、このところ「エントロピー」という言葉が目に付く。目に付くのは、私自身がエントロピーについて関心を持っているからにほかならない。今から20年ほど前に、雑誌でその概念を知って、大いに心を動かされたものである。その頃は環境問題が盛んに議論されていて、食堂の割り箸を使わずに、自分の箸を持ち歩く人が出始めたころだった。高校の事務室のコピー機に、「地球のエントロピーの増大を防ぐためにも、森林を伐採して作られる紙の使用をできるだけ節約するように」という趣旨のビラを、貼り付けた。外国産の木材からパルプを得て紙が作られるのだから、紙の使用量と減らせば外国にある森林が守られるという考え方だ。物理の先生がそれを見て、「うーん」と腑に落ちないような顔をしていた。エントロピーの用語の使い方に問題がありそうだということだと思う。エントロピーの本来の意味は、熱力学の法則そのものの説明で用いられるものだからだと思う。


  私にとって二度目のエントロピーへの接近は、第2回でも書いたように福岡伸一著の「生物と無生物のあいだ」(講談社現代新書)を読んだことであり、同書に引用されていた清水 博著の「生命を捉えなおす」(中公新書)も読んだためでもあった。エントロピーに関する記述で、清水氏はミクロな状態の総数の対数を使ってマクロな系の状態の多様性を示す指標とし、この指標を「エントロピーと呼ぶことにします」と定義されている。私は学者ではないのだから、エントロピーを正確に定義して正しく使用する義務はない。生物学におけるその中心的な概念をセンシングすれば、それで足りるのだから。

  以前から不思議な思いで見ていた現象がある。夏、ホースで水を撒いているとき、ホースの先端を手から放すと、まるで蛇のようにうねり始める。ホースがまるで意志を持った生き物のように見える。でも、ホースが受ける水圧を緩め続ければ、やがて動かなくなる。このような単なる物理現象が、どのような経過をたどってDNAを備えた生物に変身したのか私は分からない。しかし、時間の経過とともにエントロピーが増大するという自然の法則に逆らって、子孫を残すことができる生物に変身したことは、本当に驚くべきことである。

  週刊ダイヤモンド3月1日号には上田氏の「3分間ドラッカー」というコラムに、「企業の役割は経済のエントロピーの法則を打ち破ることだ」と書かれている。この場合のエントロピーの使用例は、熱力学の法則や清水氏の定義するものとも大きく懸け離れている。それゆえにドラッカーは「経済のエントロピーの法則」と言ったのだと思う。今やエントロピーは、①「秩序から無秩序への移行」あるいはその逆の変化、②量的変化から質的変化、に対する比喩として使われるようになった感がある。

  私の話がエントロピーという言葉の国語的な解釈に終始してしまった。常識を越える例外的な現象があることを、サムシング・グレイトの存在に置き換えて理解した方が、本当は私にはわかりやすいのだが。

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