2012年3月5日月曜日
ようやく養鶏の技法を修得できたかな?
なぜそのように思うかというと、鶏(近江しゃも)達の表情や羽の色で、そのことが感じられるからである。餌も飼料会社から買ったものから脱却して、ついにヒヨコの餌までも自家配合が可能になった。この間、多くの近江しゃもが本来の使命を待たず、あえなく命を落としていった。この尊い犠牲を払ってくれた骸は、今、鶏舎敷地の片隅で、雑草の下に眠っている。「一将功なって万骨枯る」とはこのことだ。滋賀県立大学では、生化学・栄養学・生態学など多くの公開講座を受けることが出来た。この科学的知見をもとに、さらに技術を磨いていかなければならない。ようやくスタートラインに立って、遙かにゴールを見据えることが出来るようになった気がしてきた。しかし、TPPという大きな障害物が視界を遮ろうとしている。
2009年3月4日水曜日
鶏インフルエンザと新型インフルエンザ(その2)
1)インフルエンザウイルスの宿主は水鳥である。
2)インフルエンザウイルスへの罹患と生物種の密度
3)鳥インフルエンザウイルスと人間のレセプターの部位
詳細は近日公開
2)インフルエンザウイルスへの罹患と生物種の密度
3)鳥インフルエンザウイルスと人間のレセプターの部位
詳細は近日公開
2009年2月4日水曜日
漢方のツボで水虫が治りつつある
僕の母はマッサージ師をしていた。父がセレベスのトモホンで何事もなく終戦を迎えたが、武装解除でマカッサルへ終結する途中、昭和20年11月1日、原住民の物盗りに竹槍で刺されて亡くなった。母と僕は父の実家を継ぐために滋賀県へ来たが、百姓では収入が無いに等しいので、母は百姓の合間にマッサージをするため免許を取ったのだった。僕は「門前の小僧」どころか「門内の小僧」になった。僕は一人っ子で、おまけに「甘い物好き」だったので、たちまち虫歯になった。甘い物好きというだけで虫歯にはならない。本当の原因は、虫歯の菌が他から移ったに違いない。
とにかく僕は何本も虫歯になって、痛くて仕方がなかった。虫歯で肩こりも起きた。だから、漢方で言うツボは、母に押さえてもらったり、自分でも体のあちこちを押さえて分かるようになった。今では歯医者に歯痛を押さえる方法を教えているくらいだ。歯科用の椅子に腰掛けさせられて子供がワーワー泣いていたので、「先生、歯痛は相対的な痛みなんですよ。つまり、歯よりも痛いところを作ったら、歯の痛みは忘れるんです。足の指先を洗濯ばさみで挟んだら、歯の方の痛みはお留守になるんです。」といった調子でね。
しかし、ツボを押さえて水虫が治ることを本で読んで、「本当かなあ?」と思った。しかも、このツボは、水虫だけでなく、ニキビやソバカス、疔や瘍など皮膚に出るものにも効くという。どの本に載っていたかというと、著者は野口晴哉氏の「整体入門」(ちくま文庫)という文庫本である。野口氏は1976年に亡くなられているが、本は今も売っている所謂「名著」であるらしい。
僕が水虫になったのは、いつの頃か覚えていない。母も「水虫が痒い」と言っていたので、母子相伝の水虫なのだ。僕はその後、足の爪が白くなるだけの水虫になった。爪が白くなったのは治らない。熱を加えると菌が死ぬだろうと思って、爪の上に「モグサ」を置いて線香で火を付ける、すなわち「灸(きゅう)」を何度もした。「爪の上に灯をともすような生活」という用例があるが、どのような情景を指しているのかよく分からないが、爪が焦げるときほど痛いことはない。昔、日本の天主教の殉教者が火あぶりになったが、あそらく爪の痛みが脳天に刺さった感じになり、失神されたことだろうと想像できる。なんといっても、水虫の菌は不死身だね。新しく出てきた爪が、また白濁し始めるのです。内服薬もあるが、それは飲みたくない。人間の大便(ウンコ)の1割は菌の固まりだとされているから、内服薬を飲んだら腸内の菌が少なくなって、体に副作用が出そうだから。自分自身の足の白い爪とともに死ぬしかないと、僕は諦めていた。
それが、試しにこの本に書いてあるとおりに指圧したら、毎晩寝床で3回局部を押すだけなんだけど、治ってきたんだ。毎月第三木曜日、村の公民館で開かれる老人会のサロンに、僕は30分だけ時事問題や各種の啓発のための話をしている。その場に集まった20人ほどの人に対して、無礼を承知で素足を出して確認して貰ってるから本当の話なのです。どこを指圧するのか、それは図書館で借りてでも、また、大枚600円を出して購入されたら一層はっきりするでしょう。会社にいた頃に結婚されて、その後アメリカに留学して大学教授になられた人が、のろけ話に「ここが当たって痛いんや。」と言っておられたのを思い出してしまいます。
最後に、指圧で水虫が治ることを、生化学・分子生物学ではどのように説明されるのか、興味があります。抗原抗体反応のような生体防御反応のひとつとして、漢方や指圧のツボが新たな分野を開くかも知れないのです。
とにかく僕は何本も虫歯になって、痛くて仕方がなかった。虫歯で肩こりも起きた。だから、漢方で言うツボは、母に押さえてもらったり、自分でも体のあちこちを押さえて分かるようになった。今では歯医者に歯痛を押さえる方法を教えているくらいだ。歯科用の椅子に腰掛けさせられて子供がワーワー泣いていたので、「先生、歯痛は相対的な痛みなんですよ。つまり、歯よりも痛いところを作ったら、歯の痛みは忘れるんです。足の指先を洗濯ばさみで挟んだら、歯の方の痛みはお留守になるんです。」といった調子でね。
しかし、ツボを押さえて水虫が治ることを本で読んで、「本当かなあ?」と思った。しかも、このツボは、水虫だけでなく、ニキビやソバカス、疔や瘍など皮膚に出るものにも効くという。どの本に載っていたかというと、著者は野口晴哉氏の「整体入門」(ちくま文庫)という文庫本である。野口氏は1976年に亡くなられているが、本は今も売っている所謂「名著」であるらしい。
僕が水虫になったのは、いつの頃か覚えていない。母も「水虫が痒い」と言っていたので、母子相伝の水虫なのだ。僕はその後、足の爪が白くなるだけの水虫になった。爪が白くなったのは治らない。熱を加えると菌が死ぬだろうと思って、爪の上に「モグサ」を置いて線香で火を付ける、すなわち「灸(きゅう)」を何度もした。「爪の上に灯をともすような生活」という用例があるが、どのような情景を指しているのかよく分からないが、爪が焦げるときほど痛いことはない。昔、日本の天主教の殉教者が火あぶりになったが、あそらく爪の痛みが脳天に刺さった感じになり、失神されたことだろうと想像できる。なんといっても、水虫の菌は不死身だね。新しく出てきた爪が、また白濁し始めるのです。内服薬もあるが、それは飲みたくない。人間の大便(ウンコ)の1割は菌の固まりだとされているから、内服薬を飲んだら腸内の菌が少なくなって、体に副作用が出そうだから。自分自身の足の白い爪とともに死ぬしかないと、僕は諦めていた。
それが、試しにこの本に書いてあるとおりに指圧したら、毎晩寝床で3回局部を押すだけなんだけど、治ってきたんだ。毎月第三木曜日、村の公民館で開かれる老人会のサロンに、僕は30分だけ時事問題や各種の啓発のための話をしている。その場に集まった20人ほどの人に対して、無礼を承知で素足を出して確認して貰ってるから本当の話なのです。どこを指圧するのか、それは図書館で借りてでも、また、大枚600円を出して購入されたら一層はっきりするでしょう。会社にいた頃に結婚されて、その後アメリカに留学して大学教授になられた人が、のろけ話に「ここが当たって痛いんや。」と言っておられたのを思い出してしまいます。
最後に、指圧で水虫が治ることを、生化学・分子生物学ではどのように説明されるのか、興味があります。抗原抗体反応のような生体防御反応のひとつとして、漢方や指圧のツボが新たな分野を開くかも知れないのです。
2009年1月28日水曜日
株)アイカ養鶏場とは
株式会社アイカ養鶏場(英語標記 Iqua Poultry Farm Co.,Ltd.)の目指すところ
Q. 「アイカ」は何を意味しているの?
A. 滋賀県伊香(いか)郡の位置は、県の北の端で福井県と岐阜県に接しています。伊香をローマ字 で綴ると「Ika」となるが、「Iqua」と綴ることもできます。これを「a i kwa」と発音し、社名に取り入れました。将来、地場産業となることを願っての命名であります。
伊香郡という地名は、市町村合併を目前にして、今や風前のともしびとなっています。しかし、過去を振り返ると、時として一等星の輝きを帯びることもあったのです。いくつか挙げて見ましょう。
①伊香郡大字古橋の東には海抜923メートルの己高山(こだかみやま)があります。その頂上付近に、神亀元年に僧行基が鶏足寺(けいそくじ)を建立されました。毎暁に金鶏が鳴くので雪の上に足跡をたどると、池があり、そこから仏像が出てきました。行基は喜んで己高山鶏足寺と号することにされました。これ以降明治時代まで、この山から見える範囲に留まらず、多くの人々の信仰を集めました。
②延喜式神明帳に記載する神社は全国で382座あり、近江の国が155座を占めています。こちらの伊香郡は46座あり、全国の1割2分、近江の国の3割を占めています。
③伊香郡には余呉(よご)湖がありますが、此処には天女伝説があります。天女の子が伊香連の先祖となります。
④余呉の大字坂口にある菅山寺真寂寺坊の僧 尊元阿闍梨が托鉢に出て、天女が残していった稚児を哀れんで連れ帰り養育した。この児が菅原是善郷の養子になって、後の菅原道真となったとされている。
⑤この菅山寺には宋版一切経があったが、徳川家康によって持ち去られ、現在、東京芝の増上寺に置かれている。
⑥
⑦
⑧柴田勝家と羽柴秀吉が戦った「賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦」で、加藤清正、福島正則など七本槍が有名です。
Q. 養鶏場では何を飼うの?
A. 当面、「近江しゃも」を飼うことにしています。しかし、社名の英語標記で「Poultry Farm」とあるように、需要に応じてその他の家禽類を飼うことも考えています。たとえば、七面鳥とか烏骨鶏なども飼うかも知れません。
会社の概要については、これから少しずつ書き足していきます。
Q. 「アイカ」は何を意味しているの?
A. 滋賀県伊香(いか)郡の位置は、県の北の端で福井県と岐阜県に接しています。伊香をローマ字 で綴ると「Ika」となるが、「Iqua」と綴ることもできます。これを「a i kwa」と発音し、社名に取り入れました。将来、地場産業となることを願っての命名であります。
伊香郡という地名は、市町村合併を目前にして、今や風前のともしびとなっています。しかし、過去を振り返ると、時として一等星の輝きを帯びることもあったのです。いくつか挙げて見ましょう。
①伊香郡大字古橋の東には海抜923メートルの己高山(こだかみやま)があります。その頂上付近に、神亀元年に僧行基が鶏足寺(けいそくじ)を建立されました。毎暁に金鶏が鳴くので雪の上に足跡をたどると、池があり、そこから仏像が出てきました。行基は喜んで己高山鶏足寺と号することにされました。これ以降明治時代まで、この山から見える範囲に留まらず、多くの人々の信仰を集めました。
②延喜式神明帳に記載する神社は全国で382座あり、近江の国が155座を占めています。こちらの伊香郡は46座あり、全国の1割2分、近江の国の3割を占めています。
③伊香郡には余呉(よご)湖がありますが、此処には天女伝説があります。天女の子が伊香連の先祖となります。
④余呉の大字坂口にある菅山寺真寂寺坊の僧 尊元阿闍梨が托鉢に出て、天女が残していった稚児を哀れんで連れ帰り養育した。この児が菅原是善郷の養子になって、後の菅原道真となったとされている。
⑤この菅山寺には宋版一切経があったが、徳川家康によって持ち去られ、現在、東京芝の増上寺に置かれている。
⑥
⑦
⑧柴田勝家と羽柴秀吉が戦った「賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦」で、加藤清正、福島正則など七本槍が有名です。
Q. 養鶏場では何を飼うの?
A. 当面、「近江しゃも」を飼うことにしています。しかし、社名の英語標記で「Poultry Farm」とあるように、需要に応じてその他の家禽類を飼うことも考えています。たとえば、七面鳥とか烏骨鶏なども飼うかも知れません。
会社の概要については、これから少しずつ書き足していきます。
2009年1月18日日曜日
利根川.立花共著の「精神と物質」を読んで
滋賀県立大学の公開講義に参加している。後期は福渡努助教授の「分子生物学」を習っている。そして、正月休みの宿題が、この本と福岡伸一著の「生物と無生物のあいだ」を読んでレポートを出すことだった。
この本を読み終えて、授業でならった分子生物学がすっかり分かったような気になったが、時間の経過とともに元の木阿弥に戻りつつある。なぜ分かったような気になったのだろうか。おそらく利根川博士の発見のストーリーが必然の因果関係として僕の脳に働きかけたからだろう。m-RNAがDNAの配列を転写するときに、スプライシングといって遺伝子である重要な部分だけを抜き取って転写する作用があるのだが、この作用に似たような形で、一連の流れが僕の記憶に残ったようだ。あらためて「必然の因果関係」という論理の大切さを再確認したところである。将棋や囲碁のプロが、いとも簡単に打ち始めからの配石を並べ直すのも、その時点での必然の手を模索していたからに他ならない。
利根川博士の免疫の機構を明らかにした功績をたたえて、当時のソーク研究所のダルベッコは「利根川は最先端の機器や分析方法をうまく使って大きな発見に繋げた」という意味のことを言っている。この本を読んで利根川博士の「器用さ」を感じた。世渡りの器用さではなく、いわば日曜大工的な手先の器用さである。西洋人の論理の緻密さはいろんなところで語られているので、疑う余地はないが、日本人の手先の器用さが勝ったという感じがする。博士の日常の作業は電気泳動機器を使ってタンパク質の混合物から個別の物質を同定するものであり、気の遠くなるくらい根気の要る作業だが、新たに開発された機器や分析方法を器用に使いこなして抗体の多様性の機構を解明して行ったわけです。 でも、利根川博士は平均的な日本人と比べると、やっぱり異質な人間だよね。
僕は周りが田圃に囲まれた田舎の村に住んでいる。村の寄り合い(会合)で、水路の水漏れに関して議論があり、大方の住人の発想が科学的でないことを痛感した。33世帯しかない村の住人の中には、学校の教員も何人か居て所帯主として参加しているんだが、具体的な話になると、科学的合理主義というツールを全然使っていないわけ。学校で何のために理科の実験をやっているのか理解してないんだなあ。
学校でどんな実験をやっているのか僕は知らないけど、たとえば、酸性とアルカリ性を区別できるリトマス試験紙を使った実験があるとするだろう。テストでは「リトマス試験紙が赤になれば酸性、青になればアルカリ性」という知識を覚えるのが理科の実験の主目的であると勘違いしている教員が大部分ではないだろうか。もちろんリトマス試験紙の色が水素イオン濃度によって変化すること自体は大切な因果関係である。この実験で確認した因果関係をツールにして、別の自然科学的事象を合理的に説明しようとする態度を養うことが実験の主たる目的であるはずだ。
「水路から水が漏れているのか、それとも道を隔てた別の田圃から水が漏れてくるのか、については、水に着色するなどで原因が分かるかも知れない。だから、実験をするべきだ。」と僕が言っても、思い込みの強い人間には通じないようだ。水漏れの結果だけを取り上げて、原因を勝手に推測するから困ったものだ。結局、村の執行部は水漏れのシュプレヒコールを繰り返す者に同調して、ろくに現地も確認しないまま農道を割って水路からの導水管を取替える手法を容認した。導水管の取り替えという高額の工事費を伴う実験をして、水漏れの原因を調べていると無理に理解させられているようなものだ。
住人のこのような性行を見ている限り、自然科学がいくら進歩しても、人類は愚行を繰り返すことだろう。利根川博士は、「精神を生み出す脳などの身体はタンパク質で出来ており、精神は物質から生み出されている」という意味のことを言っている。そうだとすると、タンパク質に組み込まれた遺伝子に支配されている人間の未来は決して決して明るくないと思っている。
この本を読み終えて、授業でならった分子生物学がすっかり分かったような気になったが、時間の経過とともに元の木阿弥に戻りつつある。なぜ分かったような気になったのだろうか。おそらく利根川博士の発見のストーリーが必然の因果関係として僕の脳に働きかけたからだろう。m-RNAがDNAの配列を転写するときに、スプライシングといって遺伝子である重要な部分だけを抜き取って転写する作用があるのだが、この作用に似たような形で、一連の流れが僕の記憶に残ったようだ。あらためて「必然の因果関係」という論理の大切さを再確認したところである。将棋や囲碁のプロが、いとも簡単に打ち始めからの配石を並べ直すのも、その時点での必然の手を模索していたからに他ならない。
利根川博士の免疫の機構を明らかにした功績をたたえて、当時のソーク研究所のダルベッコは「利根川は最先端の機器や分析方法をうまく使って大きな発見に繋げた」という意味のことを言っている。この本を読んで利根川博士の「器用さ」を感じた。世渡りの器用さではなく、いわば日曜大工的な手先の器用さである。西洋人の論理の緻密さはいろんなところで語られているので、疑う余地はないが、日本人の手先の器用さが勝ったという感じがする。博士の日常の作業は電気泳動機器を使ってタンパク質の混合物から個別の物質を同定するものであり、気の遠くなるくらい根気の要る作業だが、新たに開発された機器や分析方法を器用に使いこなして抗体の多様性の機構を解明して行ったわけです。 でも、利根川博士は平均的な日本人と比べると、やっぱり異質な人間だよね。
僕は周りが田圃に囲まれた田舎の村に住んでいる。村の寄り合い(会合)で、水路の水漏れに関して議論があり、大方の住人の発想が科学的でないことを痛感した。33世帯しかない村の住人の中には、学校の教員も何人か居て所帯主として参加しているんだが、具体的な話になると、科学的合理主義というツールを全然使っていないわけ。学校で何のために理科の実験をやっているのか理解してないんだなあ。
学校でどんな実験をやっているのか僕は知らないけど、たとえば、酸性とアルカリ性を区別できるリトマス試験紙を使った実験があるとするだろう。テストでは「リトマス試験紙が赤になれば酸性、青になればアルカリ性」という知識を覚えるのが理科の実験の主目的であると勘違いしている教員が大部分ではないだろうか。もちろんリトマス試験紙の色が水素イオン濃度によって変化すること自体は大切な因果関係である。この実験で確認した因果関係をツールにして、別の自然科学的事象を合理的に説明しようとする態度を養うことが実験の主たる目的であるはずだ。
「水路から水が漏れているのか、それとも道を隔てた別の田圃から水が漏れてくるのか、については、水に着色するなどで原因が分かるかも知れない。だから、実験をするべきだ。」と僕が言っても、思い込みの強い人間には通じないようだ。水漏れの結果だけを取り上げて、原因を勝手に推測するから困ったものだ。結局、村の執行部は水漏れのシュプレヒコールを繰り返す者に同調して、ろくに現地も確認しないまま農道を割って水路からの導水管を取替える手法を容認した。導水管の取り替えという高額の工事費を伴う実験をして、水漏れの原因を調べていると無理に理解させられているようなものだ。
住人のこのような性行を見ている限り、自然科学がいくら進歩しても、人類は愚行を繰り返すことだろう。利根川博士は、「精神を生み出す脳などの身体はタンパク質で出来ており、精神は物質から生み出されている」という意味のことを言っている。そうだとすると、タンパク質に組み込まれた遺伝子に支配されている人間の未来は決して決して明るくないと思っている。
2008年9月12日金曜日
鳥インフルエンザと新型インフルエンザ
こんなことを書くとマスコミに叱られそうだが、「鳥インフルエンザの報道によって、ニワトリに対する抜きがたい恐怖心を日本の社会に撒き散らしたのは新聞・テレビなどのマスコミだ」と、僕は断言してもよい。鳥インフルエンザも新型インフルエンザもごちゃ混ぜで報道されていたことを、僕は指摘している。もちろん、行政機関のマスコミへの資料提供が説明不足だったり、適切でなかったことも原因しているだろう。しかしながら、報道する立場の者は、もっと勉強すべきである。不勉強なまま、行政機関から出てきた資料や聞き取った事項を、馬鹿の丸写しで報道するから世の中に無用の混乱が起きるのだ。もっとも、最近はようやくそのことが分かってきたようで、新型インフルエンザと鳥インフルエンザを意識して使い分けるようになったよね。
隣村の神社にアオサギが住み着いている。昨秋だが、僕が夜に神社の前の道を車で通りかかったら、アオサギが道端にたたずんでいた。まだ幼鳥で飛び始めらしく、警笛を鳴らしても退いてくれない。これが「未必の故意」だなと思いながら、ゆっくりとその上を通った。家に着いて車を降りたら、アオサギも車の下から出てきて公道に歩いて行った。
翌朝、我が家から50メートルほど離れた家の人が役場に電話をしたらしい。「アオサギが家の前をうろついている。孫が突かれると困るので、捕まえてほしい。」ところが、役場の返事が「野鳥はむやみに捕まえられないので、放置しておいてほしい」ということだったらしい。野鳥も鳥インフルエンザに罹っているかもしてないのに、どうして鶏ばかりうるさく注意されなければならないのか、と僕は思った。そして、野鳥は「自然保護」とか「環境保護」の風に乗り、H5N1型のインフルエンザウイルスに感染していても一網打尽に捕まえられて焼き鳥にされず、マスクも掛けずに飛んでいる。
僕は、今年の4月からシャモ(軍鶏)を10羽だけ飼っている。鶏の飼料としてホシアオバという米を今年から作り始めたので、町役場に連絡した。飼料用米は減反作物に認められているからだ。そうしたら、野鳥が軍鶏と接触しない構造になっていないか、役場から、早速、鶏舎を視察に来た。国や県から役場に指示が来ているからだが、鶏舎の周りに消石灰を撒いたり、鶏舎の出入りに長靴を消毒しなければならない。どうして鶏ばかり危険視するのかというと、「鶏の鳥インフルエンザは人に移るので超危険」という常識が世間に蔓延しているからだが、取り締まる当局も指弾されるのを恐れてやっているのだと僕は思っている。
このような例は、他にもありそうだなあ。子供のいじめ問題の発生を恐れて、携帯電話を目の敵にしているのも似たような例かも知れない。因果関係の濃淡を他人に説明するのは、本当に難しいことなんですよ。言葉では「相当因果関係」とか「条件的?因果関係」とか言って区分できるように言っているが、現実に国内で鶏から新型インフルエンザへ転移したら、「可能性は薄かったのですが・・・」と弁解してもダメ。現実に携帯電話のメールが原因で子供が自殺したら、一気に携帯電話は悪者になってしまう。論理学の学者は何を研究しているんだね。因果関係の濃淡を説明して納得できる有効な論理は考え出せないのかね、ええ? だから日本ではクレーマーがはびこるんだよ。結果だけ報道すればよい報道機関が、ヤクザまがいに幅を効かせているんだよ。
2009年2月3日、農水省はフランスのフォアグラを輸入禁止にしたそうです。フランスで鳥インフルエンザが発生しているからです。この事実に対しても、今後、いろんな憶測が成されることでしょう。菌が日本国内に入り込まないようにすることが本旨だと思いますが、この鳥インフルエンザが新型インフルエンザと混同されるに違いありません。フォアグラのH5N1型の菌が変異して人から人へ移るかも知れないことを否定するつもりはありません。また、少し騒ぎすぎだとたしなめるつもりもありません。しかし、憶測はできるだけ避けて、科学的知見に基づく意見に冷静に耳を傾けなければなりません。
隣村の神社にアオサギが住み着いている。昨秋だが、僕が夜に神社の前の道を車で通りかかったら、アオサギが道端にたたずんでいた。まだ幼鳥で飛び始めらしく、警笛を鳴らしても退いてくれない。これが「未必の故意」だなと思いながら、ゆっくりとその上を通った。家に着いて車を降りたら、アオサギも車の下から出てきて公道に歩いて行った。
翌朝、我が家から50メートルほど離れた家の人が役場に電話をしたらしい。「アオサギが家の前をうろついている。孫が突かれると困るので、捕まえてほしい。」ところが、役場の返事が「野鳥はむやみに捕まえられないので、放置しておいてほしい」ということだったらしい。野鳥も鳥インフルエンザに罹っているかもしてないのに、どうして鶏ばかりうるさく注意されなければならないのか、と僕は思った。そして、野鳥は「自然保護」とか「環境保護」の風に乗り、H5N1型のインフルエンザウイルスに感染していても一網打尽に捕まえられて焼き鳥にされず、マスクも掛けずに飛んでいる。
僕は、今年の4月からシャモ(軍鶏)を10羽だけ飼っている。鶏の飼料としてホシアオバという米を今年から作り始めたので、町役場に連絡した。飼料用米は減反作物に認められているからだ。そうしたら、野鳥が軍鶏と接触しない構造になっていないか、役場から、早速、鶏舎を視察に来た。国や県から役場に指示が来ているからだが、鶏舎の周りに消石灰を撒いたり、鶏舎の出入りに長靴を消毒しなければならない。どうして鶏ばかり危険視するのかというと、「鶏の鳥インフルエンザは人に移るので超危険」という常識が世間に蔓延しているからだが、取り締まる当局も指弾されるのを恐れてやっているのだと僕は思っている。
このような例は、他にもありそうだなあ。子供のいじめ問題の発生を恐れて、携帯電話を目の敵にしているのも似たような例かも知れない。因果関係の濃淡を他人に説明するのは、本当に難しいことなんですよ。言葉では「相当因果関係」とか「条件的?因果関係」とか言って区分できるように言っているが、現実に国内で鶏から新型インフルエンザへ転移したら、「可能性は薄かったのですが・・・」と弁解してもダメ。現実に携帯電話のメールが原因で子供が自殺したら、一気に携帯電話は悪者になってしまう。論理学の学者は何を研究しているんだね。因果関係の濃淡を説明して納得できる有効な論理は考え出せないのかね、ええ? だから日本ではクレーマーがはびこるんだよ。結果だけ報道すればよい報道機関が、ヤクザまがいに幅を効かせているんだよ。
2009年2月3日、農水省はフランスのフォアグラを輸入禁止にしたそうです。フランスで鳥インフルエンザが発生しているからです。この事実に対しても、今後、いろんな憶測が成されることでしょう。菌が日本国内に入り込まないようにすることが本旨だと思いますが、この鳥インフルエンザが新型インフルエンザと混同されるに違いありません。フォアグラのH5N1型の菌が変異して人から人へ移るかも知れないことを否定するつもりはありません。また、少し騒ぎすぎだとたしなめるつもりもありません。しかし、憶測はできるだけ避けて、科学的知見に基づく意見に冷静に耳を傾けなければなりません。
2008年6月28日土曜日
いよいよ軍鶏が鳴き出した
我が家へヒナを引き取ってから二ヶ月が経った。(引き取り日:4月26日)今朝(6月28日)、変な声が聞こえるのでぎょっとして鶏舎を見に行ったら、軍鶏が鳴き始めた。今のところ、「コケコー」と完全な鳴きようではなさそうだが、早朝から高らかに鳴きだしたら、近所迷惑を考えて鶏舎の位置を移さなければならない。現在は自家の裏だが、人家と距離を置く田圃の中の予定地へ移さなければならない。鶏の成長に急かされて、次の段取りを考える羽目になってしまった。
二棟目の鶏舎はビニールハウスの鉄パイプで組み立てるつもりだ。設置予定地にある既設の小屋を基地にして、飼料などを置くつもり。清潔な水も用意しなければならない。しかし、8月10日過ぎに実施される田圃の害虫防除が終わるまで、予定地へ移すのは止めておかねばならない。鶏に農薬が掛かっても困る。そのうち台風が吹くようになる。となると、一気に来年の予定地へ移るしか選択の余地がなくなるかな? そこは、南と東の方向に林や藪があるので、風は幾分弱くなるだろう。一方で、加害動物への対策も考える必要がある。先日も狐が「ギャー」と声を上げていたし、そこは山と河川の堤防を繋ぐ地点なので、イノシシや熊が通過する。イタチもいるだろう。まったく、運動会にある「借り物競走」と「障害物競走」みたいだ。すべてに万全を図っていたら、ゴールは遠くなる。
役場から職員が来て、鳥インフルエンザの対策で質問を受けた。行政機関も自分たちに責任が被ってこないように動き出している。パンデミック対策だが、パンデミックは明日起こるかも知れないし、十年後に起きるかも知れない。だから、どれだけ緊張感を持って、しかも事前の適切な被害予防策を打てるのだろうか、心配だ。
文藝春秋の八月号には養鶏業にとって不利な記事が載っている。図書館で走り読みしただけなので熟読していないが、鶏舎から人に伝染する新型インフルエンザが発生することも記載されている。もちろんその可能性は否定しないが、確率は極めて低いことだけは断言できる。なぜなら、野鳥が鳥インフルエンザの菌を運んでくるのだから、野鳥から人間に鳥インフルエンザ菌が感染する可能性の方が高いからである。車に鳥から糞を掛けられた経験のある人は多いと思う。ワイパーで取り除いても、空気取り入れ口から車内の菌が運ばれることは充分予想される。野菜に掛けられた野鳥の糞も多い。野鳥の死骸に触れる者もあるだろう。このような環境下で、野鳥対策に注力している鶏が感染源となる可能性は極めて低い。現状は「鶏叩き」で、鶏はスケープゴートだ。自然保護の美名の基に、鶏に一方的に責任を転嫁するものに他ならないと私は思っている。野鳥を捕獲することは難しいが、野鳥の捕獲こそ最優先すべきことではないのか。
京都大学の大澤真幸教授(哲学)が、人間の言葉は結果的に無限の可能性を議論することになっていると述べている。国会の議論でも、国策を忘れて細かい可能性の議論をしていることが多い。ひところの地方自治体の総合計画には、馬鹿なコンサルの起案による長期的な人口増加のグラフばかりが幅をきかせていた。ひとたび人口減少が主流になると、今度は人口減少のグラフばかりが目に付く。実現可能性と思考上の可能性が混線している例は、経済記事に多い。予想の違った学者や評論家は知らぬ顔を決め込んでいる。我々養鶏業の者も、新型インフルエンザが日本の鶏から発生すると言った人々や役所の者をしっかりと記録して、後々の物笑いの資料として保存を図らなければならない。
二棟目の鶏舎はビニールハウスの鉄パイプで組み立てるつもりだ。設置予定地にある既設の小屋を基地にして、飼料などを置くつもり。清潔な水も用意しなければならない。しかし、8月10日過ぎに実施される田圃の害虫防除が終わるまで、予定地へ移すのは止めておかねばならない。鶏に農薬が掛かっても困る。そのうち台風が吹くようになる。となると、一気に来年の予定地へ移るしか選択の余地がなくなるかな? そこは、南と東の方向に林や藪があるので、風は幾分弱くなるだろう。一方で、加害動物への対策も考える必要がある。先日も狐が「ギャー」と声を上げていたし、そこは山と河川の堤防を繋ぐ地点なので、イノシシや熊が通過する。イタチもいるだろう。まったく、運動会にある「借り物競走」と「障害物競走」みたいだ。すべてに万全を図っていたら、ゴールは遠くなる。
役場から職員が来て、鳥インフルエンザの対策で質問を受けた。行政機関も自分たちに責任が被ってこないように動き出している。パンデミック対策だが、パンデミックは明日起こるかも知れないし、十年後に起きるかも知れない。だから、どれだけ緊張感を持って、しかも事前の適切な被害予防策を打てるのだろうか、心配だ。
文藝春秋の八月号には養鶏業にとって不利な記事が載っている。図書館で走り読みしただけなので熟読していないが、鶏舎から人に伝染する新型インフルエンザが発生することも記載されている。もちろんその可能性は否定しないが、確率は極めて低いことだけは断言できる。なぜなら、野鳥が鳥インフルエンザの菌を運んでくるのだから、野鳥から人間に鳥インフルエンザ菌が感染する可能性の方が高いからである。車に鳥から糞を掛けられた経験のある人は多いと思う。ワイパーで取り除いても、空気取り入れ口から車内の菌が運ばれることは充分予想される。野菜に掛けられた野鳥の糞も多い。野鳥の死骸に触れる者もあるだろう。このような環境下で、野鳥対策に注力している鶏が感染源となる可能性は極めて低い。現状は「鶏叩き」で、鶏はスケープゴートだ。自然保護の美名の基に、鶏に一方的に責任を転嫁するものに他ならないと私は思っている。野鳥を捕獲することは難しいが、野鳥の捕獲こそ最優先すべきことではないのか。
京都大学の大澤真幸教授(哲学)が、人間の言葉は結果的に無限の可能性を議論することになっていると述べている。国会の議論でも、国策を忘れて細かい可能性の議論をしていることが多い。ひところの地方自治体の総合計画には、馬鹿なコンサルの起案による長期的な人口増加のグラフばかりが幅をきかせていた。ひとたび人口減少が主流になると、今度は人口減少のグラフばかりが目に付く。実現可能性と思考上の可能性が混線している例は、経済記事に多い。予想の違った学者や評論家は知らぬ顔を決め込んでいる。我々養鶏業の者も、新型インフルエンザが日本の鶏から発生すると言った人々や役所の者をしっかりと記録して、後々の物笑いの資料として保存を図らなければならない。
登録:
投稿 (Atom)