滋賀県立大学の公開講義に参加している。後期は福渡努助教授の「分子生物学」を習っている。そして、正月休みの宿題が、この本と福岡伸一著の「生物と無生物のあいだ」を読んでレポートを出すことだった。
この本を読み終えて、授業でならった分子生物学がすっかり分かったような気になったが、時間の経過とともに元の木阿弥に戻りつつある。なぜ分かったような気になったのだろうか。おそらく利根川博士の発見のストーリーが必然の因果関係として僕の脳に働きかけたからだろう。m-RNAがDNAの配列を転写するときに、スプライシングといって遺伝子である重要な部分だけを抜き取って転写する作用があるのだが、この作用に似たような形で、一連の流れが僕の記憶に残ったようだ。あらためて「必然の因果関係」という論理の大切さを再確認したところである。将棋や囲碁のプロが、いとも簡単に打ち始めからの配石を並べ直すのも、その時点での必然の手を模索していたからに他ならない。
利根川博士の免疫の機構を明らかにした功績をたたえて、当時のソーク研究所のダルベッコは「利根川は最先端の機器や分析方法をうまく使って大きな発見に繋げた」という意味のことを言っている。この本を読んで利根川博士の「器用さ」を感じた。世渡りの器用さではなく、いわば日曜大工的な手先の器用さである。西洋人の論理の緻密さはいろんなところで語られているので、疑う余地はないが、日本人の手先の器用さが勝ったという感じがする。博士の日常の作業は電気泳動機器を使ってタンパク質の混合物から個別の物質を同定するものであり、気の遠くなるくらい根気の要る作業だが、新たに開発された機器や分析方法を器用に使いこなして抗体の多様性の機構を解明して行ったわけです。 でも、利根川博士は平均的な日本人と比べると、やっぱり異質な人間だよね。
僕は周りが田圃に囲まれた田舎の村に住んでいる。村の寄り合い(会合)で、水路の水漏れに関して議論があり、大方の住人の発想が科学的でないことを痛感した。33世帯しかない村の住人の中には、学校の教員も何人か居て所帯主として参加しているんだが、具体的な話になると、科学的合理主義というツールを全然使っていないわけ。学校で何のために理科の実験をやっているのか理解してないんだなあ。
学校でどんな実験をやっているのか僕は知らないけど、たとえば、酸性とアルカリ性を区別できるリトマス試験紙を使った実験があるとするだろう。テストでは「リトマス試験紙が赤になれば酸性、青になればアルカリ性」という知識を覚えるのが理科の実験の主目的であると勘違いしている教員が大部分ではないだろうか。もちろんリトマス試験紙の色が水素イオン濃度によって変化すること自体は大切な因果関係である。この実験で確認した因果関係をツールにして、別の自然科学的事象を合理的に説明しようとする態度を養うことが実験の主たる目的であるはずだ。
「水路から水が漏れているのか、それとも道を隔てた別の田圃から水が漏れてくるのか、については、水に着色するなどで原因が分かるかも知れない。だから、実験をするべきだ。」と僕が言っても、思い込みの強い人間には通じないようだ。水漏れの結果だけを取り上げて、原因を勝手に推測するから困ったものだ。結局、村の執行部は水漏れのシュプレヒコールを繰り返す者に同調して、ろくに現地も確認しないまま農道を割って水路からの導水管を取替える手法を容認した。導水管の取り替えという高額の工事費を伴う実験をして、水漏れの原因を調べていると無理に理解させられているようなものだ。
住人のこのような性行を見ている限り、自然科学がいくら進歩しても、人類は愚行を繰り返すことだろう。利根川博士は、「精神を生み出す脳などの身体はタンパク質で出来ており、精神は物質から生み出されている」という意味のことを言っている。そうだとすると、タンパク質に組み込まれた遺伝子に支配されている人間の未来は決して決して明るくないと思っている。
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