2008年6月12日木曜日

学問は有効な手段として生活や仕事に役立つか

 昨日は久しぶりに旧友と会った。会う場所は、双方の中間地点に近い喫茶店にした。住宅地の奥まったところにあるこの喫茶店は、まだ一度しか来ていない。それは地元県議会議員の当選祝いの会場から流れてこの店に来たものだった。私はそのとき、カラオケで”千の風になって”を歌った。同席した同年齢の女性が「コーラスの会員になってほしい」と誘ってくれたが、それ以来なんの連絡もない。カラオケは勤めていたときから私は嫌いだった。あまり上手に歌うと、アグレッシブな性格の人から嫌みを言われたり、とにかく人間関係がギクシャクする。大方の歌う者からすると、そこそこの程度の者ばかりの方が安心するし、何より楽しいのだと思う。

 約束の時間通り、彼は軽トラックでやってきた。店のドアを開け、スリッパに履き替えて防音用ドアを開けると、誰かの歌声が聞こえてくる。歌っている男を見て、これまたびっくり。中学校1年生の時の級友だった。当時、彼はあまり勉強の方は得意でなかったが、性格の方は実に良い男だった。誘ってきた旧友を放置して、しばらく話し込んだ。

 さて、一緒に来た旧友は以前に勤めていた役所で、同じ課になったことがあった。それ以来、歳は私の方が三歳上なのだが、家も比較的近いので付き合っている。彼は若い頃は勉強家で、大学で農業経済を専攻していたことから、毎日新聞社発行のエコノミストや中央公論など硬派のものをよく読んでいた。しかし、定年を迎える頃のなると、勉強の意欲も衰えてきたのか、硬い話をあまりしなくなった。
学問上の知識をあれこれと詰め込むことは、生きていく上で有効な手段ではないと考えるようになったのか、それとも現実の生活に忙殺され、興味を失ったのかもしれない。

 私は、現在、滋賀県立大学の公開講義を受講している。前期は「人間文化論C」と「栄養生化学」をとっている。

 人間文化論Cは、家族に焦点を当て、人間関係、生活デザイン、食生活についての諸問題を三人の先生が講義される。私の受講理由は、近江しゃも(軍鶏)を飼育し、鶏肉だけでなく付加価値の高い食品を開発するためには、その消費者である現在の家族の実態を知る必要があった。単なる教養を付けるためだったら、この科目にそれほどの興味を持たなかっただろう。現に、最初の授業で三人の講師のオリエンテーションの内容を聞いて、「くだらない」といって以後来なくなった公開講義受講生がいる。目的を持たなかったら、それほど興味を持てないのは当然だ。学生の受講目的が単位の取得であっても、受講を必要としているのであるから、私と立場は変わらない。でも、一般教養の習得が受講目的なら、少し動機が薄弱だと言わざるを得ない。寄席に通うのと動機があまり変わらないからだ。

 栄養生化学は、マッキー生化学の翻訳版を教科書にして、栄養素の化学と代謝を理解することがねらいである。工業高校では生物は習っていないので、授業に付いていくのに四苦八苦しているが、五十年前に生物学を習っていても、ほとんど今のレベルは理解できないだろう。それほど生化学の進歩は著しいものだ。化学構造式に違和感を感じないので、水素結合など初めて聞く用語もあるが、化学に関しては自信がある。おかげでこの科目を選択したことに満足している。おそらく、公開講義の受講者の中で、私が一番満足しているのではないだろうか。柴田克己先生の授業の方法は、大事なことだけを教え、残りは個々人で自習するように言われている。この人の授業は、学問に興味をそそる教え方なのがよい。

 話を主題に戻すと、やはり学問は仕事や生活に有効に機能しうるものであると、私は信じる。せっかく良いカンナを手に入れても、木の削り方を知らないと、逆目でうまく削れなかったり、また、カンナの刃を砥石で研ぐやり方を知らないと、二三回の使い切りに終わってしまう。学問もシェイブアップ、バージョンアップしていかないと、生活や仕事で成果を出すまでに至らないと思う。まあこれは一般論だから、私は自分の仕事に役立つよう、これからも勉強していきたい。

 

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